天守閣:附櫓及び多聞櫓(彦根城)概要: 彦根城天守閣は慶長11年(1606)に井伊直政の長男である井伊直継によって建てられたと推定されています(解体修理の際に慶長11年の墨書が見つかっている事から同年か翌年頃に竣工)。彦根城は近江国内にあった大津城や長浜城、佐和山城など、廃城となった城郭から施設の移築や破却した際発生する用材などを利用し、天守閣については井伊家の歴史書である「井伊年譜」によると「天守は京極家の大津城の殿守也」の一文がある事から大津城の4重5階の天守閣を解体し改めて三重三階の天守として組み上げられたと推定されています。
築城当時は豊臣秀頼が大坂城に健在だった事から、本来彦根城は軍事的な色彩が強いように思われますが、実際この天守閣は小規模ながら唐破風や千鳥破風、金箔の金物、懸魚の意匠、高欄、花頭窓など意匠に富み、権力を故事しているようにも見えます。井伊家は徳川家家臣の中でも譜代筆頭として幕府の要職に就いた為、歴代彦根藩の藩主は自領に戻る事が少なく天守閣も藩主が着用する鎧を置かれる程度と有効利用される事はなかったようです。
明治4年(1871)に廃藩置県が施行されると彦根藩も廃藩となり、彦根城も破却される運命でしたが、明治11年(1878)に明治天皇が巡幸の折彦根を訪れた際、大隈重信、又はかね子(住持攝専夫人)が保存を奉上した事で多くの施設が残される結果となりました。本丸北西端に位置し高さ20m、三重三階、外壁は2、3階が白漆喰で仕上げられ、1階が下見板張り、屋根は入母屋、本瓦葺、唐破風や千鳥破風、花頭窓、3階の高欄など意匠に富んだ外観になっています。棟梁は浜野喜兵衛が手掛けたもので天守閣の周りには一重櫓と多聞櫓が付設され、内部には鉄砲や弓の隠狭間などの防衛的な工夫も見られます。現存する12城の天守閣の内、姫路城、松本城、犬山城と同様に昭和27年(1952)3月29日に国宝に指定されています。
【 櫓及び多聞櫓:概要 】-櫓及び多聞櫓は天守閣に付随するもので、附櫓は天守の向かって右奥に位置し、木造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押え。多聞櫓は天守の向かって右側を守るように配され、木造平屋建て、切妻、本瓦葺き、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、石垣側には矢狭間と鉄砲狭間付。附櫓は天守と同時の慶長11年(1606)頃に建てられ、多聞櫓はそれよりもやや後年に建てられたと推測されています。
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