木之本宿(北陸道・宿場町)概要: 木之本宿は案内板によると「 当地は、大陸と都を結ぶ交通の要衝として古代より開けた場所で、木之本地蔵院の門前町を中心に宿駅が形成されてきました。
江戸時代、金沢城下から中仙道鳥居本宿を結ぶ街道が「北国上街道(通称・北国街道)」として本陣や問屋などが整備され、旅籠や酒屋が軒を並べる宿場の町並みが成立し今日に至るまでその名残をとどめています。
また、年に一度開かれた牛馬市は、歴史に名を残す数々の名馬が売り買いされたことで大いに賑わいました。木之本宿の南端を起点として中仙道関ヶ原宿を結ぶ「北国脇往還」は東海方面への近道として、東海・江戸方面と北国を往来する街道として賑わいました。」とあります。
古くから交通の要衝として知られ、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家に勝利すると天下の趨勢は秀吉に大きく傾き天正13年(1585)には秀吉に従った山内一豊が長浜領主となり、元禄11年(1698)には佐和山城主石田三成、江戸時代には彦根藩が支配しました。
北陸道が本格的に開削されると、宿場町として整備され木之本宿には本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒が設けられ、江戸時代中期には家屋193軒が建ち並んでいました。
本陣は代々竹内家が世襲し、脇本陣は山路家、問屋は藤田家がその任にあたり、脇本陣家は伝馬所取締り役として柳ヶ瀬関所の管理が任されていました。
牛馬市は、室町時代から昭和初期にかけて行なわれていたもので往時は近隣各国から数百頭の牛馬が集められ山内一豊の妻である千代が家財を売り払い木之本宿で名馬を買い付けた事が逸話として残っています。
現在でも江戸時代末期から昭和初期の町屋が建ち並び往時の北陸道宿場町の風情を色濃く残っています。
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