近江八幡(商家町)・町並み

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近江八幡(商家町)
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【滋賀県近江八幡市】近江八幡は天正13年(1585)に豊臣秀次により八幡山城が築かれ、その城下町として整備されたのが始まりとされ、当時の当地域の中心だった安土城(旧織田信長の居城)を廃城としてその城下町毎移転したと推定されています。豊臣秀次は豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀と三好一路との子供、秀吉から見ると甥に当たる人物で、秀吉は身分の低い家の出身だった事から、先祖から従う一族や譜代家臣が存在しない為、早くから期待されていたと思われます。秀次は幼少の頃は人質として暮らしていましたが、元服してからは多くの戦いに従軍、小牧・長久手の戦では徳川家康の老獪な戦術に翻弄されたものの、その後は大きな失敗もなく順調に出世して八幡山城43万石(秀次分は23万石)が与えられました。

天正18年(1590)の小田原の役後は100万石、文禄2年(1593)には秀吉の養子として関白職を譲られると、近江八幡もそのお膝元として大津、堅田と共に琵琶湖三大港に数えるられるなど大きく繁栄しましたが、秀吉の実子である秀頼が生まれると逆に疎まれ、高野山に蟄居の上、文禄4年(1595)には自刃に追い込まれました。その後、妻や愛妾、子供まで悉く三条河原で処刑され、直臣の家老は切腹、関係者の多くが連座、秀次と縁の深い聚楽第や八幡山城は破却されました。

八幡山城が破却された事で行政、軍事の重要性は失われましたが、城の堀を運河として利用した町割や、琵琶湖舟運の拠点、中山道に比較的近い地の利などから経済的な重要性は変わらず、引き続き商人達は近江八幡に住み続け、数多くの豪商(近江商人:西川甚五郎家、西川庄六家、森五郎兵衛家は特に八幡御三家と呼ばれた)を輩出しました。現在でも伝統的な商家町としての町並みは健在で、間口の広い屋敷に構えた町屋(町家)建築や、八幡堀に建ち並ぶ土蔵群は見事で時代劇のロケ地としても利用される程で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。

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