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【大津市坂本町】−大津市坂本町は比叡山延暦寺の門前町として発展した町です。比叡山延暦寺は平安時代初期に天台宗の高僧最澄によって開かれた日本天台宗の総本山で往時は全国各地に荘園を持ち政治的にも大きな影響力がありました。麓である坂本町には数多くの里坊だけでなく、全国の荘園から持ち込まれた年貢米や特産物が集められた事から経済的にも発展し、往時は1万人以上の人口を抱える当時としては全国的にも有数な都市となりました。特に、琵琶湖舟運が盛んになると、坂本湊には数多くの舟運船が停泊し活況を呈しました。
又、比叡山延暦寺の守護神で坂本町の鎮守である日吉大社が町並みの奥に鎮座し、こちらも日吉・山王信仰の本社として全国的な信仰の広がりを見せました。中世以降になると比叡山延暦寺は既得権益を守る為に次第に武装化し、僧兵と呼ばれる僧侶を数多く擁するようになり度々兵乱に巻き込まれる事もありました。特に戦国時代には織田信長(安土城の城主)との対立から全山焼き討ちとなり数多く堂宇が焼失し僧侶や関係者も惨殺され、坂本町も大きな被害があったと思われます。坂本町の復興には信長の重臣である明智光秀が尽力し、琵琶湖湖畔には壮麗な坂本城が築かれここを拠点にして町並みが再整備されています。しかし、復興半ばの天正10年(1582)本能寺の変により明智光秀は織田信長を倒したものの、続く山崎の合戦で羽柴秀吉で大敗、退路の途中に命を落とし坂本城も落城しました。
比叡山の本格的な復興は豊臣秀吉の時代で、特に秀吉の幼名が「日吉丸(諸説ありますが、現在では否定的な意見が多い)」、顔が猿に似ていた事から日吉大社を篤く庇護したと伝えられています(日吉大社の神の遣いは猿)。江戸時代に入ると幕府の重鎮だった天海大僧正が天台宗の高僧だった事からさらなる復興が行われ、坂本町には日光東照宮の原型(権現造り)ともされる日吉東照宮が造営されました。町並みは穴太衆と呼ばれる石工職人集団が築いた石垣に屋敷を構えた里坊群と比叡山延暦寺と日吉大社の門前町を町屋建築群で構成され現在でも当時の雰囲気が色濃く残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、歴史的風土保存区域に指定されています。
【穴太積】−穴太積とは滋賀県の大津市坂本に隣接する穴太(穴太ノ里)の地で発生した石工集団が手掛けた自然石を積み上げる野面積みの石垣で事を指します。石工集団は地名から穴太衆と呼ばれ、古くは古墳時代の石積みの職人の末裔とも云われています。当初は神社や寺院などが中心でしたが、戦国時代になると城郭で利用されるようになり、特に織田信長の安土城は全国初の本格的な石垣を採用した大城郭となりました(安土城の石垣が穴太衆によるものかは諸説有り)。その後は、安土城に倣い、各地で石垣を用いた城郭が次々に築かれています。現在、坂本の町並みでも随所に穴太積の石垣が見られ、正に穴太積の里、穴太積の見本とも言える景観を見る事が出来ます。
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