小谷城(長浜市)概要: 小谷城の築城年には諸説あり永正13年(1516)説、大永4年(1524)説などが有力で浅井亮政が築いたのが始まりとされます。浅井家は京極氏の被官大名でしたが大永3年(1523)に京極家の内乱に乗じて主家を攻めて近江国北部一帯を支配する広大領地を手中にしましたが、大永5年(1525)には六角定頼の侵攻により小谷城が戦場になり亮政は城を退去し美濃国に逃れるなど不安定な状況が続きました。さらに、小谷城に復帰したものの一進一退を繰り返し天文3年(1534)に京極氏と和睦した事で事実上、北近江の実権を握ったものの、天文7年(1538)に再び六角氏に攻められ落城しています。
天正11年(1542)亮政が死去すると、養子である浅井明政と側室との実子である浅井久政とが家督争いとなり、明政は京極家に付いて攻め込んだ為、久政は六角氏の配下になる事で領土が一応安堵されました。六角氏の従属した久政に対して家臣達の不満が募ると、永禄2年(1559)に今で言うクーデーターを起こし久政の嫡子である賢政(長政)を擁立し、久政を強制隠居に追い込み六角氏からの独立を図りました。長政は周辺の国人領主を掌握すると越前を支配した朝倉家との盟友関係を強化し、さらに織田信長の妹 市を正室として迎えるなど確固たる地位を固め、六角氏に対して次第に有利に展開していきました。
しかし、信長が朝倉氏を攻めた事で確執が生まれ、元亀元年(1570)には浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍とおこった姉川の戦いにより浅井家が敗北した事で衰微し、家臣の離反などで徐々に領域が織田軍によって浸蝕されていきました。天正元年(1573)、信長の小谷城へ侵攻は苛烈を極め、援軍にきた朝倉軍も刀根坂の戦いで敗退し越前に退き、京極丸と小丸が落ちた翌日に長政が自害し落城しました。
その後、領主となった羽柴秀吉は北陸街道の陸運と琵琶湖の水運の拠点である長浜城を築いた為、小谷城は廃城となり小谷城の残った多くの建材が長浜城に利用されたと云われています(現在、彦根城西の丸の三重隅櫓は小谷城の天守閣が長浜城に移され、さらに彦根城に移されたものと伝えられています)。
標高約495mの小谷山の南筋に築かれた山城で頂部付近に山王丸、小丸、京極丸、中丸があり大堀切を挟んで本丸を配し、大手筋には御茶屋敷曲輪や御馬屋敷曲輪といった軍事施設と家臣屋敷が軒を連ね、主要部には大規模な石垣が積まれています。小谷城は規模や歴史性などから春日山城(新潟県上越市)・七尾城(石川県七尾市)・観音寺城(滋賀県近江八幡市)・月山富田城(島根県安来市)と共に日本五大山城の1つに数えられ小谷城一帯が国指定史跡に指定されています。
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