長浜城

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概要・歴史・観光・見所
長浜城(別名:今浜城・出世城)概要: 長浜城は延元元年(1336)、京極高氏(佐々木道誉、婆沙羅大名の異名)が出城として築城したのが始まりとされます。当初は今浜城と呼ばれ、京極家の家臣である今浜氏や上坂氏が守将として在城しますが大永3年(1523)に京極家の内乱に乗じて浅井家が北近江の領主になると支配下に置かれます。天正元年(1573)、織田信長の小谷侵攻により小谷城が落城し浅井家が滅亡すると新たに12万石の領主となった羽柴秀吉は北陸街道の陸運と琵琶湖の水運の拠点である今浜を居城として定め、改めて長浜城を築城しています(信長の「長」の字と今浜の「浜」の字を合わせて長浜と改名したと伝えられています)。天正4年(1577)頃概ね完成し、その際、小谷城より多くの建材が再利用され、多くの商家や寺院なども小谷城下から移し当地方の中心都市として整備されました。

長浜城は平城、水城、湖城などに分類され本丸には3重の天守、御殿、隅櫓、二ノ丸には御殿、三ノ丸には家臣屋敷、本丸から見ると概ね4重の堀で囲われていました。又、琵琶湖の水運を合理的に運用する為、城内に湖水を引き込み水門から船が出入り出来、本丸は琵琶湖に張出すように縄張りしています。天正8年(1580)に秀吉が姫路城(兵庫県姫路市)に移封になると天正9年(1581)に堀秀政が2万5千石で入城し、天正10年(1582)の本能寺の変後は柴田勝豊が城主となります。

柴田勝豊は柴田勝家の甥にあたる人物でしたが天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に与し長浜城は秀吉方の軍事的拠点として利用されています。その後は再び堀秀政が城主となり、秀政が佐和山城(彦根市)に移封になると天正13年(1585)に山内一豊が2万石で入封、文禄4年(1595)からは内藤信正が城主となり慶長20年(1615)に内藤信正が高槻城(大阪府高槻市)に移封になると廃城となります。

長浜周辺は彦根藩に組み込まれ、長浜城の用材や石垣などが彦根城(彦根市)築城の際に再利用され天秤櫓や西の丸3重櫓は元々は長浜城のものだったと伝えられています。又、長浜城の大手門が大通寺の台所門に搦手門が知善院の表門にそれぞれ移築され長浜市指定文化財に指定されています。城域一帯は昭和37年(1962)に長浜市指定史跡に指定されています。昭和58年(1983)には鉄筋コンクリート造により長浜城復興天守(模擬天守、明確な資料が無かった為、犬山城の天守閣を参考し初期の望楼型が採用されたそうです。)が建設され、内部は長浜市長浜城歴史博物館として利用されています。

【 長浜城大手門:概要 】-大通寺の台所門は長浜城の大手門とされます。案内板によると「 この門は元長浜城の大手門であったと伝えられている。大通寺は、始め長浜城の一廓に長浜御坊と称して創立されたが、その時城の大手門を御坊の門とした。慶長11年(1606)[ 一説には寛永16年(1639) ]に大通寺が現在地が現在地に移転されたとき、門もまた移されたが、文化5年(1808)に重層の山門を起工するにあたって、これを現在の場所に移したもので、裏門とも台所門とも呼ばれている。門柱や側柱の用材、扉の菱形金具と八双金具、門柱正面のまんじゅう金具、両端の男梁上に置いた板蟇股等は創建当時のもので、桃山時代の様式を持ち、雄大なことはやはり城門の遺構であるとうなずける。」とあります。

又、近隣にある知善院には長浜城の搦手門とされる城門が表門として移築されています。大通寺の台所門は天正16年(1588)の銘がある扉金具がある事からこの頃に建てられたもので、切妻、本瓦葺き、三間一戸、薬医門、獅子口瓦(元禄元年神無月吉日の刻銘)、獅子口瓦(山城國紀伊郡深草住人の刻銘)、雨蓋瓦(享保十八年三月十一日の刻銘)と共に長浜市指定文化財に指定されています。

【 長浜城搦手門:概要 】-現在の知善院表門は長浜城の搦手門とされる建物で、建築年は不詳ですが天正13年(1586)の天正地震で長浜城の殆どの施設が倒壊した事から、その直後に当時の城主である山内一豊によって再建されたものと推定され、同じく長浜城の大手門が移築されている大通寺の台所門には天正16年(1588)の銘がある扉金具がある事から搦手門も同時期に再建されたと思われます。元和元年(1615)に当時の長浜藩の藩主内藤信正が摂津高槻藩に移封になると長浜藩は廃藩となり、それに伴い長浜城も廃城、破却された際に知善院の表門として移築されたと思われます。切妻、本瓦葺き(背面:桟瓦葺き)、三間一戸、棟門、向かって左側に潜戸付、用材が太く、本扉の太い格子戸に城門の特徴がある。

【 長浜城御殿:概要 】-宗安寺(滋賀県彦根市本町)の本堂は長浜城の御殿だった建物で、案内板によると「・・・・元禄14年10月7日夜彦根大火により類焼を受け、本尊仏を始め諸堂宇苑に附具などことごとく灰燼に厄にかかりしが、その翌年藩主の助力により、長浜城(内藤豊前守信成公)の御殿を拝領し改造ををなしたるが現存の建築物なり、・・・・」とあります。宗安寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行10間半、梁間8間半、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、数少ない長浜城の遺構として貴重な事から昭和23年(2011)12月20日に彦根市景観重要建造物に選定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-長浜市教育委員会

長浜城:模擬天守閣等・写真

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