与志漏神社(長浜市)概要: 与志漏神社は滋賀県長浜市木之本町古橋に鎮座している神社です。与志漏神社の創建は不詳ですが古くから余領郷の氏神として崇敬される大社だったと伝えられています。境内背後の山の斜面には製鉄炉跡もあり古代の精錬技術者の氏神や祭神である波多八代宿禰(武内宿禰の子で淡海臣の祖)の子孫である波多氏との関係も深いものと推定されています。
又、伝承によると景行天皇(71〜130年)の御代、勅命により当地を巡視した武内宿称が、大蛇の被害により荒廃した村々を目の当たりにした為、息子である波多八代之宿称に討伐を命じました、波多八代之宿称は素盞鳴尊縁の神剣を手にして大蛇を討ち取ると、村人達は波多八代之宿称と神剣(素盞鳴尊)に感謝し社を設けて祭ったと伝えられています。
与志漏神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載され、平安時代から鎌倉時代にかけては己高山七大寺(己高山五箇寺とも)に数えられた鶏足寺の鎮守社として社運も隆盛しました。境内にある戸岩寺は霊亀2年(716)に創建されたもので行基菩薩がこの地に移し戸岩寺と名付けたと云われています。
伝教大師や空海、自覚大師といった名僧とも縁があり最盛期には境内に多くの堂宇が建ち並び岩本坊・阿弥陀坊・開寿坊・真乗坊・道禅坊・長円坊の6坊を擁し30余名の修行僧が勤めていました。中世に入ると小谷城の城主浅井家に庇護され、社領や屏風を寄進しています。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、己高山にあった多くの寺院急速に衰退します。明治9年(1876)に村社、明治18年(1885)に郷社に列し、明治42年(1909)に神饌幣帛料供進社に指定されています。境内にある「己高閣」と「世代閣」には廃寺となった寺宝や仏像が集められ展示、保存されています。戸岩寺の旧本堂(薬師堂)は木造平屋建て、入母屋、鉄板葺き、平入、桁行3間、張間3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り。
与志漏神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行3間、張間3間、外壁は柱のみの吹き放し。与志漏神社本殿は一間社流造、正面千鳥破風、銅板葺き、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造板張り。中門(神門)は切妻、銅板葺き、一間一戸。祭神:神速須佐之男命、波多八代宿禰命。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板
・ 観音と薬師の里 古橋周辺案内図
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