大津市坂本(歴史)概要: 大津市坂本は古くから開けた地域で、特に朝鮮半島系の渡来人が開拓したとされ、横穴式石室の技法などは朝鮮から伝えられたものと推定されています。背後に控える比叡山も原始時代から信仰の対象になった神山で、日吉大社の祭神である大山咋神が鎮座し、後に小比叡と呼ばれた牛尾山(八王子山)に遷座、麓の里宮に司祭が移り日吉大社東本宮として信仰を広げました。さらに、天智天皇6年(667)に大津京に遷宮すると三輪山の大巳貴神が勧請され西本宮が創建しました。
延暦7年(788)には最澄が後の延暦寺となる比叡山寺を創建し、以後天台宗の総本山として隆盛を極めます。最盛期には東塔・西塔・横川を中心に三塔十六谷三千坊を擁し全国に数多くの荘園を所有する日本屈指の大寺として大きな影響力を持ちました。坂本には門前町であると共に、全国の荘園から集められた年貢米など多くの物資が集められ経済的にも発展し、中世には日本有数の人口を有する都市となります。延暦寺は広大の寺領を有していたことから多く僧兵を抱え武装化し、三井寺や本願寺と対立し、時の朝廷や幕府などにも対抗しうる軍事力を持つようになり度々戦乱となり坂本もその兵火により大きな被害をあっています。
戦国時代に入ると織田信長と対立、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで延暦寺のみならず日吉大社や門前町である坂本も焼失しています。坂本は京都へと通じる交通の要衝で軍事的拠点でもあった為、信長は重臣である明智光秀を配し、坂本城を中心に新たに城下町を計画します。坂本城はルイス・フロイスの記した「日本史」によると安土城に次ぐ規模と華麗さを持つ城と評しており、坂本の軍事的重要性と光秀の地位の高さが窺えます。天正10年(1582)、本能寺の変の際、安土城を占拠した明智秀満(光秀の従兄弟)は山崎の合戦で光秀敗戦の報を聞き坂本城に引き返すと自ら城に火を放ち自害しています。その後、坂本城は丹羽長秀、杉原家次、浅野長吉らが城主となりますが重要性が失われ天正14年(1586)に廃城となっています。
豊臣秀吉の幼名は日吉丸と称し、愛称がサルだったことから日吉大社にただならぬ縁を感じていたようで、日吉大社や比叡山延暦寺の再興に力を入れたとされ、さらに江戸時代に入ると幕府に大きな影響力をもった大僧正天海も天台宗だった為、日吉東照宮を造営するなど庇護しました。坂本の復興は最盛期には戻らなかったものの、現在も近世以前の町並みや里坊の庭園や穴太衆積み石垣が良好に維持され平成9年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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