東海道(滋賀県:近江路)

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概要・歴史・観光・見所

【土山宿】土山宿滋賀県甲賀市)は東海道と中山道愛知川宿を結ぶ御代参街道(名称は皇族が伊勢神宮参拝後に当街道を利用して多賀大社に参拝を訪れた事に起因しています。)の分岐点で、難所である鈴鹿峠を控えていた事から多くの旅人や商人が利用しました。又、幕府の直領である天領だった為、宿場内には代官陣屋が設けられ領内の行政の中心となりました。江戸時代後期には本陣2軒(土山喜左衛門家・大黒屋立岡家)、脇本陣0軒(幕末には二階屋堤氏が脇本陣を務めた)、旅籠44軒、現在でも街道沿いには古い町並みが残り往時の雰囲気が残されています。

【水口宿】−水口宿(滋賀県甲賀市)は東海道の宿場町であると同時に水口藩の藩庁と藩主居館を置かれた水口城(滋賀県指定史跡)の城下町として発展しました。古くから軍事的な要地で、戦国時代には水口岡山城が築かれ、豊臣家の重臣が城主を歴任し城下町の整備に尽力しています。江戸時代後期には本陣1軒(鵜飼家)、脇本陣1軒、旅籠41軒、家屋692軒、宿場長さ22町6間。

【石部宿】−石部宿(滋賀県湖南市)は京都からの距離的な関係から、京都を朝方に出立すると夕方に石部宿に到着した事から「京立ち石部泊り」と唄われ、多くの旅人や商人が宿泊地として利用しました。さらに、伊勢参宮街道との分岐点でもあった為、江戸時代中期以降、庶民にも行楽思考が高まると伊勢神宮(三重県伊勢市)への参拝者も急速に多くなり石部宿もそれに伴い栄えました。又、灰山からは黄銅鉱が採掘され鉱山町としても発展しました。江戸時代後期には本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠32軒、家屋458軒。

【草津宿】−草津宿(滋賀県草津市)は中山道と東海道が分岐する交通の要衝として重要視されてきた町です。追分である分岐点には文化13年(1816)に江戸や大坂の豪商達が寄進した高さ1丈4尺7寸(約4.45m)道の標が建立され「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」と刻まれています。江戸時代後期には本陣2軒、脇本陣2軒(最盛期には4軒)、旅籠72軒(最盛期には132軒)、家屋586軒、田中七左衞門本陣は現存する本陣としては最大級で、多くの大名や著名人(吉良上野介、浅野内匠頭、皇女和宮、新選組、シーボルトなど)が利用して歴史的にも貴重な事から国指定史跡に指定されています。

【大津宿】−大津宿(滋賀県大津市)は中山道69番目、東海道53番目の宿場で、琵琶湖舟運の拠点、膳所藩の藩庁、藩主居館が置かれた膳所城(日本三大湖城)の城下町でもあった為、中山道の宿場町の中では最大級の宿場町として発展しました。交通の要所だった瀬田唐橋を控えた事で度々戦場にもなっています。大津京(水海大津宮:7世紀後半、天智天皇の宮殿:国指定史跡)が遷都された歴史がある他、近江国府(国指定史跡)が置かれ、周辺には近江国分寺や近江国一之宮である建部大社が創建され、京都に隣接している事から数多くの名社、名刹が点在しています。

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