織田信雄公四代供養塔(安土城)概要: 織田信長次男信雄の家系4代の供養塔で長谷川邸跡と伝わる2の丸直下の郭に建立されています。天正10年(1582)の本能寺の変で織田信長が倒れると、豊臣秀吉の台頭により織田家は事実上乗っ取られ一族は次々と大名家からは没落し、最終的には信長の次男である織田信雄の家系だけが大名として明治維新を迎えています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に信雄は5万石を与えられ宇陀松山藩(奈良県宇陀市大宇陀)を立藩、その後、飛び地であった上野小幡(群馬県甘楽町)2万石を4男信良に与え、残った宇陀松山藩領2万8千石を5男高長に継がせました。高長は形式上織田家一族の筆頭という立場であった事から安土城にある織田家の菩提寺であるハ見寺を庇護し、一方で領内にも信雄の死後、寛永9年(1632)に高長が父親の菩提を弔う為に徳源寺を創建し織田家の菩提寺として初代から4代まで境内に葬られました。4代信武の代に御家騒動(宇陀崩れ)が起こり、それが元で元禄7年(1694)に信武は自殺、5代藩主として信休が認められたものの、国主格が剥奪され元禄8年(1695)には丹波柏原藩(兵庫県丹波市柏原)2万石で移封となりました。その際、徳源寺にあった初代から4代までの墓碑を安土城の長谷川邸跡地である現在地に移し、織田家一族が住職を歴任したハ見寺に供養を懇願しました。供養塔は向って右から宇陀松山藩初代藩主織田信雄(戒名:徳源院殿実巌常眞大居士)、寛永7年没、享年73歳・4代織田信武(戒名:圓明院殿定岩宗恵大居士)、元禄7年没、享年40歳・3代織田長頼(戒名:徳雲院殿回岩宗頂大居士)、元禄2年没、享年70歳・2代織田高長(戒名:瑞泉院殿一岩宗徹大居士)、延宝2年没、享年85歳。
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