胡宮神社(多賀町)概要: 胡宮神社は滋賀県犬上郡多賀町敏満寺に鎮座している神社です。胡宮神社の創建は不詳ですが、青龍山の巨石信仰が起源とされ、現在も頂上付近にある巨石の前には祠が建立され信仰の対象となっています。その後、聖徳太子が創建した敏満寺の鎮守社となり多賀大社の祭神である伊邪那岐命・伊邪那美命の分霊、又は事勝国勝長狭尊(塩土翁)が勧請されました。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社、多何神社2座のうちの1座とも多賀大社の別宮とも多賀大社の奥宮とも云われ当時の例祭では多賀大社まで渡御が行われていたそうです(多何宮は高宮とも読め、音読みにするとコウ宮、これが転じて胡宮になった説。多賀大社の末社の意味である児宮だった説。多賀大社の旧地の意味である古宮だった説があります)。
赤染衛門(平安時代中期の女流歌人。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。)が息子の大江挙周が重病を患っていた際、胡宮神社に病平癒の祈願を行っている事から平安時代では既に都でも知られた存在で、源平の争乱で東大寺(奈良県奈良市雑司町)が焼失すると再建を担った俊乗坊重源上人が高齢だった事から延命長寿を祈願したところ20年分の延命を授かったと伝えられています。重源上人が東大寺再建を完遂すると神意に感謝し、建久9年(1198)12月に胡宮神社の別当寺院である敏満寺に対し銅製五輪塔を寄進し附として紙本墨書寄進状と共に大正11年(1922)に国指定重要文化財に指定されています。又、文和2年(1353)に後光厳天皇(北朝第4代天皇・在位:観応3年1352年〜応安4年1371年)が美濃から都に御帰りになった際、行在所として利用されている事から皇室からも信頼が厚かったと思われます。
胡宮神社の別当寺院だった敏満寺の創建は不詳ですが、伝承によると聖徳太子が開いたと伝えられています。境内のある旧水沼村は東大寺の荘園だった事から関係が深かったとされ、中世に入るとに敏満寺の寺運が隆盛し最盛期には100余坊を擁する大寺として湖東三山に並び称されました。永禄5年(1562)の浅井長政、元亀3年(1572)の織田信長の兵火により多くの堂宇が焼失したことで廃寺となり、唯一残った福寿院が胡宮神社の別当寺院となります。
胡宮神社も大きな被害を受け衰退していましたが天正年間(1573〜1592年)に豊臣秀吉から再興の願いが許可が下り社殿と大日堂が再建され、さらに寛永年間(1624〜1645年)に3代将軍徳川家光の庇護の下大造営が行われ現在ある本殿、大日堂、観音堂が寛永15年(1638)に建立されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され神社として独立し(福寿院は廃寺)、社号を「胡之神社」に改め、明治14年(1881)に郷社、明治19年(1886)に県社に列し、さらに社号を「胡宮神社」に改称しています。
現在でも境内には仏教色が強い大日堂や観音堂、多数の石仏、石碑など随所に神仏習合の名残が見られ、特に青龍山西麓斜面、標高約180mに立地する敏満寺石仏谷墓跡には約1600余りの石仏・石塔や3つの巨石などがあり大変貴重な事から平成17年(2005)に国指定史跡に指定されています。
胡宮神社社務所庭園は江戸時代中期に別当寺院だった福寿院の庭園として作庭された鑑賞式林泉園で書院から眺めると山裾の地形を巧みに利用しながら自然石や池、植栽を絶妙に配置、大変貴重な事から昭和9年(1934)に国指定名勝に指定されています。胡宮神社本殿は寛永15年(1638)に造営されたもので、三間社流造、檜皮葺き、桁行3間、張間2間、江戸時代初期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から昭和32年(1957)に滋賀県指定文化財に指定されています。胡宮神社文書398点は鎌倉時代から明治時代にかけて書されたもので、胡宮神社や敏満寺、福寿院の由緒や諸行事、出来事、為政者や領主とのやり取り、信仰、多賀大社との関係性など多岐にわたり、貴重な事から平成18年(2006)に多賀町指定文化財に指定されています。祭神:伊弉諾尊、伊弉冊尊。配祀:事勝国勝長狭命。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-滋賀県教育委員会
・ 胡宮神社境内案内図-敏満寺史跡文化保存会
|
|