東本宮楼門(日吉大社)概要: 東本宮楼門は日吉大社東本宮の正門にあたり、元亀2年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちの兵火により楼門も焼失しています。信長の存命中は再建が許されませんでしたが天正10年(1582)に本能寺の変で信長が倒れ、豊臣秀吉の時代に入ると、再建の機運が高まりました。秀吉は幼名の日吉丸、日吉大社では猿が神の使いである事などから(秀吉の顔が猿に似ていた)篤く帰依し、観音寺の僧、詮舜の尽力により天正年間から文禄2年(1573〜1593年)に再建されました。現在の楼門はその当事のもので入母屋、檜皮葺、三間一戸、八脚楼門形式、2重垂木、三手先、外壁は真壁造、構造体は朱色に塗られ、外壁は白漆喰仕上げ、上層部には高欄が廻っています。西本宮楼門と略同時期、同規模で建てられている為に意匠的にも似通っていますが、西本宮楼門で見られる屋根を支える猿の彫刻が見られず、東本宮楼門の方が1階部分がやや高く、2階部分が低く設定されているようです(西本宮には1・2階共に蟇股の彫刻があるものの、東本宮には1階のみしか見られません)。猿は日吉大社では神の使徒である事から本来は両方にあっても良い為、何故このような違いがあるのかは不詳ですが東本宮から見て西本宮は南西に位置し、南西は裏鬼門の未申(ひつじさる)に当たる事から猿が裏鬼門の守護神として彫刻されていたのかも知れません。又、もっと単純に東本宮の祭神である大山咋神よりも西本宮の祭神である大己貴神の方が上位である事から西本宮楼門の意匠を高く設定したのかも知れません。東本宮楼門は桃山時代に建てられた楼門形式神門の遺構として大変貴重な存在で意匠にも優れている為、大正12年(1923)3月に国指定重要文化財に指定されています。
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