日吉大社(大津市坂本)概要: 日吉大社の創建は崇神天皇の御代(起源前148年〜紀元前29年)、地主神とされる大山咋神と妻神である鴨玉依姫神を比叡山(日枝の山)に勧請したのが始まりと伝えらています。その後、八王子山(牛尾山:現在は日吉大社の奥宮とされ山頂付近には金厳石と呼ばれる磐坐の他、牛尾宮と三宮が鎮座しています。)に遷座し、さらに麓の里宮が東本宮に発展していきました。
天智天皇6年(667)、都を大津に遷都した際、勅命により同7年に三輪明神大神神社の分霊である大己貴命を勧請し西本宮が創建されました。桓武天皇の御代(781〜806)には京都の御所から見て境内が北東に当る為、鬼門鎮護の鎮守社として朝廷から崇敬庇護されるようになり、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社に列するほどに社運も隆盛します。特に延暦7年(788)に最澄が比叡山延暦寺を開くと日吉大社を鎮守社とし天台の教えと山王信仰を神仏習合とした為、全国に広がった天台宗の寺院の鎮守社として数多く分霊が勧請信仰されるようになりました。
延久3年(1071)に後三条天皇が行幸された以降は数多くの天皇が行幸されるようになり、白河、鳥羽、近衛、土御門、後醍醐、後白河天皇などが参拝に訪れています。元亀2年(1571)浅井・朝倉連合軍に延暦寺が加担したことで織田信長が一山焼き討ちにし日吉大社もその兵火により多くの社殿が焼失しました。本能寺の変後に台頭した豊臣秀吉は幼名を「日吉丸」と称し、容姿が猿に似ていたところから、日吉大社の社号や猿が日吉大社にとって神の仕えとする信仰から、浅からぬ縁を感じ日吉三橋と呼ばれる大宮橋、走井橋、二宮橋を寄進してます。
江戸時代に入ると天台宗の天海大僧正が幕府で大きな影響力を持つようになったことから、幕府も日吉大社の再興の為境内を整備し、日光東照宮に先駆けて徳川家康を祀る東照宮が造営されました。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に起きる廃仏毀釈運動により比叡山延暦寺から独立、仏式も排除され西本宮と東本宮の祭神を変更するなど混乱もしました(昭和に入り祭神は戻されました。)。現在でも室町時代末期から江戸時代初期にかけての社殿が残され、中でも西本宮本殿と東本宮本殿は国宝に指定され境内一帯が国指定史跡に指定されています。
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