創建年− | 東宮:不詳、現在地には崇神天皇7年に鎮座・西宮:天智天皇7年 |
祭 神− | 西本宮:大己貴神・東本宮:大山咋神 |
格 式− | 式内社(名神大)・二十二社(下八社)・旧官幣大社・別表神社 |
文化財− |
西本宮本殿(天正14年、日吉造、檜皮葺、桁行5間、梁間3間、国宝)
東本宮本殿(文禄4年、日吉造、檜皮葺、桁行5間、梁間3間、国宝)
西本宮拝殿(天正14年、入母屋、檜皮葺、妻入、桁行3間、梁間3間、国指定重要文化財)
西本宮楼門(天正14年、入母屋、檜皮葺、三間一戸、八脚楼門、国指定重要文化財)
東本宮拝殿(文禄5年、入母屋、檜皮葺、妻入、桁行3間、梁間3間、国指定重要文化財)
東本宮楼門(文禄2年、入母屋、檜皮葺、三間一戸、八脚楼門、国指定重要文化財)
大宮橋(寛文9年、幅5.0m、長さ13.9m、橋脚12本、花崗岩製の橋板、国指定重要文化財)
走井橋(寛文9年、幅4.6m、長さ13.8m、橋脚6本、国指定重要文化財)
二宮橋(天正年間、幅5.0m、長さ13.9m、橋脚12本、花崗岩製の橋板、国指定重要文化財)
摂社宇佐宮本殿(慶長3年、日吉造、檜皮葺、桁行5間、梁間3間、国指定重要文化財)
摂社宇佐宮拝殿(慶長3年、入母屋、檜皮葺、妻入、桁行3間、梁間3間、国指定重要文化財)
摂社樹下神社本殿(文禄4年、三間社流造、檜皮葺、桁行3間、梁間2間、国指定重要文化財)
摂社樹下神社拝殿(文禄4年、入母屋、檜皮葺、妻入、桁行3間、梁間3間、国指定重要文化財)
摂社白山姫神社本殿(慶長3年、三間社流造、檜皮葺、桁行3間、梁間2間、国指定重要文化財)
摂社白山姫神社拝殿(慶長3年、入母屋、檜皮葺、妻入、桁行3間、梁間3間、国指定重要文化財)
摂社牛尾神社本殿(文禄4年、三間社流造、檜皮葺、国指定重要文化財)
摂社牛尾神社拝殿(文禄4年、入母屋、檜皮葺、軒唐破風、懸造り、国指定重要文化財)
摂社三宮神社本殿(慶長4年、三間社流造、檜皮葺、国指定重要文化財)
摂社三宮神社拝殿(慶長4年、入母屋、檜皮葺、軒唐破風、懸造り、国指定重要文化財)
末社東照宮本殿(寛永11年、三間社入母屋造、銅瓦葺、桁行3間、梁間3間、国指定重要文化財)
末社東照宮石の間(寛永11年、両下造、銅瓦葺、桁行3間、梁間1間、国指定重要文化財)
末社東照宮拝殿(寛永11年、入母屋、銅瓦葺、桁行5間、梁間3間、千鳥破風、国指定重要文化財)
末社東照宮唐門(寛永11年、四脚唐門、檜皮葺、一間一戸、国指定重要文化財)
末社東照宮透塀(寛永11年、国指定重要文化財)
日吉山王金銅装神輿(7基、桃山時代〜江戸時代、国指定重要文化財)
日吉神社境内(国史跡)
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神 事− | 山王祭:4月12・13・14・15日 |
場 所− | 滋賀県大津市坂本 |
備 考− | 日吉大社東宮が何時頃から祀られていたのは判りませんが日枝の山(現在の比叡山)に大山咋神と鴨玉依姫神を祀ったのが源とされ崇神天皇7年(紀元前91年)に現在地に遷座したとも云われています。又、別説では信仰の源は牛尾山(八王子山)の山頂に鎮座していた牛尾神社で崇神天皇7年(紀元前91年)にその里宮として現在地に創建したとも伝えられています。一方、西宮は天智天皇6年(667)に天智天皇が大津に遷都した際に大津京鎮護の為に天智天皇7年(668)に大神神社(奈良県桜井市三輪)の祭神を勧請しました。平安時代に入ると京都御所から見ると境内が北東にあたる為、鬼門鎮守として信仰の対象となり「三代実録」によると元慶4年(880)に大比叡神(西本宮祭神)が正一位、小比叡神(東本宮祭神)が従四位下に列していた事が記載され、西宮の方が格式が高かった事が窺えます。平安時代に成立した延喜式神名帳には名神大社として列格しています。又、延暦7年(788)に最澄が比叡山延暦寺を開山すると、日吉大社を守護神とした為、神仏習合し、全国各地の天台宗寺院の境内には日吉大社の分霊が勧請され山王信仰も全国的に広がりました。中世に入ると最盛期を迎え、特に室町幕府将軍足利家の崇敬社として将軍自ら参拝に訪れ、境内には末社108社、境内外にも108社を擁し、多宝塔や鐘楼など社殿以外にも七堂伽藍が備わっていたそうです。元亀2年(1571)の織田信長により延暦時焼き討ちの際にはその兵火により日吉大社の境内も荒廃しましたが、信長の死後に台頭した豊臣秀吉(羽柴秀吉)が庇護し多くの社殿を再建しています。江戸時代に入ると、幕府の重鎮だった天海大僧正が天台宗の高僧だった事から幕府から篤く庇護され社運も隆盛しています。明治時代の神仏分離と廃仏毀釈運動により仏像や仏具など仏教色が鮮明なものは一掃され社号も「日吉山王大権現」から「日吉大社」に改称し官幣大社に列格しています。 |