比叡山延暦寺(大津市坂本)概要: 比叡山延暦寺の創建は延暦4年(785)最澄が比叡山(標高:848.3m)に入り修行を行い、さらに延暦7年(788)に草庵(一乗止観院)を設けて自ら彫り込んだ薬師如来像を安置したのが始まりと伝えられています。延暦8年(789)には薬師堂、文殊堂、経蔵が造営され中心的な建物である薬師堂が3棟の中央にあったため、後に根本中堂と呼ばれるようになりました。
延暦12年(794)に桓武天皇が京都に遷都すると比叡山が北東方向(鬼門)にあたる為、延暦13年(795)には鬼門鎮護の霊場となり、さらに延暦25年(806)には大乗戒壇が設立されて天台宗が開宗、弘仁14年(824)には「延暦寺」の勅号を賜わっています。
当時、「戒壇」があった寺院は東大寺(奈良県奈良市)、観世音寺(福岡県太宰府市)、薬師寺(栃木県下野市)の3箇寺しかなく「戒壇」が認められた事で仏教界の中でも中心的な存在になる分岐点となりました。最澄の教えは奈良仏教界とは異なる事から対立関係にあり度々弾圧に遭うなど苦杯を嘗めていましたが最澄死後7日目に大乗戒壇が設立され念願が成就しています。以来、天皇や皇族、貴族など帰依したことで寺運が隆盛し、比叡山の山内には東塔、西塔、横川を中心に三塔十六谷に三千坊を擁する大寺となりました。
良源(叡山中興の祖)、源信、良忍(融通念仏宗の開祖 )、法然(浄土宗の開祖)、栄西(臨済宗の開祖)、慈円、道元(曹洞宗の開祖)、親鸞(浄土真宗の開祖)、日蓮(日蓮宗の開祖)などの名僧を輩出しましたが円仁と円珍が同時期に輩出した為対立が起り、円珍は三井寺(園城寺)に入り長らく抗争が繰り返されました。
中世に入ると、三井寺(園城寺)や本願寺との抗争や荘園など広大な寺領の管理の為次第に武装化するようになり比叡山の山内には数多くの僧兵を抱え、朝廷や幕府などにも強い影響力を持ち白河法皇は自分の意に沿わないものとして「加茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と語っています(山法師=比叡山延暦寺の僧兵)。
平安時代末期の嘉応元年(1169)には、延暦寺の僧兵が尾張国知行国主・藤原成親の配流を求めて日吉大社の神輿を担いで都の朝廷に強訴し、建久2年(1191)には源頼朝に佐々木定綱の厳罰を要求をし受け入れられています(定綱は頼朝の側近でしたが佐々木荘で千僧供料の貢納を巡り延暦寺と対立した)。
永享7年(1435)には室町幕府6代将軍足利義教(元天台座主、義円)と対立、義教が延暦寺の有力な僧を斬首した事で、反発した多くの僧侶が根本中堂に立て籠もり焼身自殺し、根本中堂が火元となり多くの堂宇や仏像などが延焼しています。明応8年(1499)には室町幕府管領である細川政元と対立した前将軍である足利義稙に与した為、政元は家臣である赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて比叡山に侵攻させ全山焼き討ちに遭っています。
戦国時代に入ると浅井家、朝倉家と共に織田信長と対立、信長から見ると当時の延暦寺には僧兵約4千と無視出来る存在では無く、武装解除にも応じなかった為、元亀2年(1571)に全山焼き討ちを命じました。明応8年(1499)の焼き討ちがあった為、往時程では無かったとされますが、それでも多くの堂宇が焼失し、僧侶や僧兵、関係者などが斬殺され境内は荒廃しました。豊臣秀吉の政権になると再興が許され、多くの堂宇が再建、徳川家康もこの政策を引き継ぎ、3代将軍家光は根本中堂を再建しています。
又、江戸時代前期の幕府に大きな影響力を持った大僧正天海は比叡山延暦寺の再興に力を入れると共に、江戸上野に東叡山寛永寺を創建し、日光輪王寺(栃木県日光市)を再興しています。現在の比叡山延暦寺には豊臣秀吉が再興以来の堂宇や数多くの寺宝を所有し、日本史上でも大きな影響力を持ったことなど大変貴重なことから平成6年(1994)に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
比叡山延暦寺:周辺駐車場マップ
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