織田信長公供養塔(安土城)概要: 織田信長公供養塔は天正11年(1583)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が信長の一周忌に安土城の2の丸に建立し信長の遺品である太刀や鳥帽子、直垂、本能寺の焼失後の灰などが収められたと伝えられています。周囲は頑丈な石壁で囲まれ一般の人は立ち入る事が許されず、秀吉は信長の菩提寺であるハ見寺に管理を命じています。秀吉の台頭により織田一族は反発しますが各個撃破され、形式上は織田家宗家を継ぎ、秀吉の主家にあたるはずの三法師(織田秀信)も豊臣政権下では岐阜城13万石程度の一大名と冷遇され、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍として行動し改易となっています。安土城も天正13年(1585)に廃城となりましたが、ハ見寺と織田信長公供養塔は維持され、血脈を保った織田家一族により信長の100回忌を天和元年(1681)、150回忌を享保16年(1731)、200回忌を天明元年(1781)、250回忌を天保3年(1832)に執り行っています。文献的にはどの様な機能や施設が建てられたのかは明確ではありませんが、信長の供養塔が建立されているところから、信長の居住空間だったとも思われています。
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