安土城(近江八幡市)概要: 安土城は天正4年(1576)、織田信長の命で丹羽長秀が総奉行となって約3箇年の年月をかけ天正7年(1579)に完成しました(天正9年に完成したとも)。安土城は越後の上杉家の南進に備えると共に京都に近く、琵琶湖の水運に長け、各街道を押える交通の要衝でもあり、比叡山や一向宗などの宗教勢力に対するのにも適した場所だったとされます。築城に際しては畿内、東海、北陸など全国各地から多くの職人や技術者が動因され、技術的には勿論、文化的にも優れ、今後築城される近代城郭の規範となりました。建材の一部は隣接した観音寺城から運ばれ、周辺の寺院の墓碑は石垣や石段などに再利用されました。
総奉行である丹羽長秀の他、普請奉行に木村高重、縄張奉行に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)、石奉行は西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某、瓦奉行は小川祐忠、堀部佐内、青山助一がそれぞれ担当し多くの人足や見物人などで城下に溢れ、数多くの物売りが軒を連ねました。技術者としては石垣、石工事は穴太衆石職の弥兵次、惣左、木工事は尾張熱田の宮大工、岡部又右衛門、内部の障壁は狩野永徳などが手懸けています。
安土城が完成すると信長は居城を岐阜城(岐阜県岐阜市)から移し天下統一の拠点として城下町も整備し「安土山下町中掟書」を発布し所謂「楽市楽座」が行われ自由取引市場を奨励すると同時に治安維持や負担の軽減が行われました(観音寺城の城下町石寺には天文18年:1549年、既に楽市令が発布されていた)。標高199mの安土山頂上には当時に類例を見ない5層7重、地上6階、地下1階の天守閣が設けられ、安土城本丸には天皇を迎える為に京都御所の清涼殿を模した思われる御殿が建立され信長のただならぬ思いが伝わってきます。大手道には羽柴秀吉や前田利家、徳川家康といった家臣の宅邸が幾重にも重なり、城郭内にハ見寺という寺院を建立するなど当時の城郭の常識を逸脱していました。
しかし、安土城は穴太衆によって積み上げられた高石垣などがあるものの、城の規模にしては防衛施設や籠城戦に対する備えも極端に少なく、大手道は幅6m約180m直線が続くなど、逆に権威の象徴的なものや文化の象徴的なものが目立ち実践的な城郭とは言えなかったようです。実際、天正10年(1582)、本能寺の変が起きると安土城の留守居役だった蒲生賢秀は信長の妻子など日野城に退去させ、変わって明智光秀の従兄弟とされる明智秀満が摂取、しかし、光秀が山崎の合戦で敗れると坂本城に引き上げています。2日後、本丸付近が火災となり天守閣も焼失、原因には諸説あり、秀満が坂本城に退去した際放火したとも、秀満退去後に安土に入った織田信雄が放火したとも、城下の火事が延焼したとも云われています。
清洲会議の後、織田秀信(信長の嫡孫・幼名:三法師)が一時留まりますが天正13年(1585)に豊臣秀次が八幡山城を築く際、廃城となり用材の多くが八幡山城に利用され、城下町も移されました。現在の安土城は石垣や礎石、郭の形状のみで唯一築城当時に城内に移されたハ見寺の二王門(国指定重要文化財)と三重塔(国指定重要文化財)だけが残されています。安土城は昭和27年(1952)に国指定特別史跡に指定され平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。
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