観音寺城(安土町)概要: 観音寺城は滋賀県近江八幡市安土町石寺に位置する中世の城郭です。観音寺城の築城年には諸説ありますが建武2年(1335)、佐々木氏頼が北畠顕家の軍を迎え撃つために築いたとも(太平記によると氏頼が観音寺城を利用した事が記載されています)、応仁2年(1468)に六角高頼が家臣に命じて築いたとも云われています(応仁の乱では3度、観音寺城を巡る攻防戦が行われています)。
さらに16世紀後半には六角氏の居城として整備され、弘治2年(1556)には全国に先駆けて大規模石垣の山城が完成しその後も随時拡張されていきました。六角氏は近江源氏である佐々木氏を祖とする名族で室町時代中期には南近江の守護職を担うなど大きな影響力を持ち、延徳元年(1489)と延徳3年(1491)には足利将軍家の侵攻を受け落城、奪還を繰り返し、その後、足利義晴と足利義輝を受け入れることで地位が確立し幕府の管領代に任じられています。
戦国時代に入ると浅井氏が台頭した事で大きく領地が削られ、さらに家臣の離反が続くなど衰微し、永禄11年(1568)には織田信長が足利義昭を奉じて京都に上る際、信長と対立した事で箕作城や和田山城など多くの支城が落とされ、六角義賢・義治父子は大きな抵抗なしに観音寺城を明け渡し甲賀地方に落ち延びます。
その後、随所で対信長の反乱を試みますが大きな動きにはならず、いつしか観音寺城も廃城となります(六角氏は大名としては没落し、後裔は佐々木氏として前田家家臣や旗本などになっています)。建物などの用材は安土城の築城の際、持ち運ばれ利用されましたが郭の形状や土塁、石垣などの遺構が残っている為、砦としての機能がある時期まで維持されたとも云われます。
観音寺城の縄張り等: 観音寺城は繖山(標高:433m)も築かれた中世の山城で、正面に琵琶湖、麓には東山道(後の中山道)、八風街道が交差する交通の要衝で山頂付近の本丸を中心に100以上の曲輪があり、南斜面に多くの曲輪を配しそれらには家臣や、六角氏に従った国人領主の屋敷が構えられていました。一般的には安土城が大規模石垣の城郭として有名ですが、それ以前から観音寺城では略総石垣を採用しており六角氏の先見性が窺えます。
観音寺城は春日山城(新潟県上越市)・小谷城(滋賀県長浜市)・七尾城(石川県七尾市)・月山富田城(島根県安来市)と共に日本五大山城の一つに数えられ、国指定史跡に指定され、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。
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