膳所藩

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膳所藩概要
膳所藩概要: 慶長6年(1601)、関が原の戦いの功で戸田一西が3万石で入封し膳所藩を立藩します。当地は交通の要衝で京都に近接していた為、膳所城は天下普請で行われ、3万石の居城としては広大で日本三大湖城(松江城:島根県松江市・膳所城:滋賀県大津市・高島城:長野県諏訪市)の一つに数えられました。元和2年(1616)、2代氏鉄が大坂の陣の功で尼崎藩(兵庫県尼崎市)に移封になると本多康俊が西尾藩(愛知県西尾市)から本多康俊が3万石で入封、しかし元和7年(1621)2代俊次は再び西尾藩に移封となります。同年菅沼定芳が長島藩(三重県桑名市長島町)が3万1千石で入封しますが寛永11年(1634)に亀山藩(京都府亀山市)に移封となり石川忠総が佐倉藩(千葉県佐倉市)から7万石で入封しました。本来嫡子である廉勝が忠総より早く死去した事で孫にあたる憲之が2代藩主となり、叔父にあたる石川総長に1万石、石川貞当に7千石を分与し5万3千石になっています。慶安4年(1651)憲之が亀山藩(三重県亀山市)に移封になると、西尾藩から再び本多俊次が7万石で入封、3代藩主本多康慶の代に弟である忠恒に1万石を分知して6万石となり、本多家が13代藩主を世襲して明治維新を迎えています。膳所藩は近畿に配された譜代大名としては高禄でしたが領地は近江国全体に分散していた為、非効率的な藩運営を強いられ、江戸時代中期には財政が逼迫する状態になります。又、藩主が若年や短期で死去することが続いていた為、家老である本多内匠一派が増長し藩政を混乱する事態に発展、最終的には幕府にも知られることとなり本多修理が派遣され本多内匠一派が処分されることになりました。幕末では尊王派と佐幕派が藩内を2分し、「禁門の変」でも態度が曖昧だった為、本来将軍が宿所として計画されていた膳所城が回避され藩の面目を失っています。膳所藩は王政復古の大号令後に設置された京都市中取締役に赴任した事で新政府軍に取り込まれる事となり、以後、政府側の一員として戊辰戦争にも参加しています。
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膳所藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代戸田一西1601〜1604年3万石 
2代戸田氏鉄1604〜1616年3万石 
初代本多康俊1617〜1621年3万石 
2代本多俊次1621年3万石 
初代菅沼定芳1621〜1634年3万1千石 
初代石川忠総1634〜1650年7万石 
2代石川憲之1651年5万3千石 
初代本多俊次1651〜1664年7万石 
2代本多康将1664〜1679年7万石 
3代本多康慶1679〜1714年6万石 
4代本多康命1714〜1719年6万石 
5代本多康敏1719〜1747年6万石 
6代本多康桓1747〜1765年6万石 
7代本多康政1765年6万石 
8代本多康伴1765〜1771年6万石 
9代本多康匡1771〜1781年6万石 
10代本多康完1782〜1806年6万石 
11代本多康禎1806〜1847年6万石 
12代本多康融1847〜1856年6万石 
13代本多康穣1856〜1871年6万石 
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