膳所城(大津市)概要: 膳所城は関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601)、徳川家康が築城の名手とされる藤堂高虎に命じて築いた城です。大津の地は京都に通じる交通の要衝で、豊臣家が健在の当時は戦略的にも重要な場所とされ、手狭で長等山から城内の様子が一望出来る弱点の持った大津城が廃城となり新たに天下普請で膳所城が計画されました。城は琵琶湖に突き出た半島風の地形に築城され為、3方が琵琶湖に面し陸上側には湖水を引き込んだ幅広の水堀が何重にも配されました。陸上部分に3の丸を配し琵琶湖方向に突き出る形で2の丸、本丸と続き、脇を固める為に北の丸や出丸、新築出などを配し、本丸には4層4階の天守閣、2の丸、本丸の正面には2層の多聞長屋、数多くの櫓が設けられました。膳所城は日本三大湖城(松江城:島根県松江市・膳所城:滋賀県大津市・高島城:長野県諏訪市)の一つに数えられ、里謡に「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われる程広く知られる存在となりました。
膳所城が完成すると大津城から戸田一西が3万石で入り膳所藩を立藩、元和2年(1616)跡を継いだ戸田氏鉄が大坂の陣の功で尼崎藩(兵庫県尼崎市)に移封になると本多康俊が3万石で入封、元和7年(1621)に本多俊次が西尾藩(愛知県西尾市)に移封になると菅沼定芳が3万1千石で入封、寛永11年(1634)に定芳が丹波亀山藩(京都府亀岡市)に移封になると石川忠総が7万石で入封、慶安4年(1651)に石川憲之が伊勢亀山藩(三重県亀山市)に移封になると本多俊次が7万石で入封となり、ようやく藩主が安定し明治維新まで本多氏が13代220年間膳所藩主を世襲しています。
寛文2年(1662)の大震災で多くの建物が大破しましたが、その後順次再建されましたが、琵琶湖に面していた事から城郭への水害や水の浸食、木材の腐朽など一般的な城郭よりも多かったとされ、城の維持には多くの費用が嵩み藩政を圧迫させています。幕末には尊王派と佐幕派が藩の主権を巡り争いが絶えませんでしたが、戊辰戦争直前に尊王派が主権を取った為新政府軍と共に従軍し桑名藩侵攻では功を挙げています。明治3年(1870)に廃城となり多くの建物は破却又は払い下げとなり、城内には見られないものの周辺には数多くの遺構(膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に移築された城門が国指定重要文化財に指定されています。)が点在されています。現在は本丸部分が膳所公園として整備され石垣の一部が残されています。
|