長浜宿(北国街道・宿場町)・町並み

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長浜宿(北国街道・宿場町)
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【長浜宿】長浜の地は天正4年(1576)前後に羽柴秀吉が長浜城を築城し、その城下町として町割されたのが始まりとされます。天正元年(1573)に浅井家の居城である小谷城が落城した事を受け、大きく貢献した織田信長の家臣だった羽柴秀吉が旧浅井領を賜ると、当初は小谷城に入りました。しかし、小谷城は山城で山間にあった為、戦略的拠点ではあったものの、行政や経済的な面では大きく不利だった事から琵琶湖の湖畔である当地に新城が計画され、小谷城下にあった多くの商家も当地に呼び寄せました。地名も今浜から長浜に改称され当地域の中心として町割されました(現在見られる碁盤の目の街路も当時の町割を踏襲しているものと思われます)。天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が倒れると、長浜城は一時柴田勝家が掌握しましたが天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗北し柴田家が没落すると、秀吉に従った山内一豊が配されました。慶長11年(1606)に内藤信成が配されると長浜藩を立藩、長浜城は藩庁、藩主居館が置かれ城下町として整備され、町も藩都として繁栄しました。元和元年(1615)、2代藩主内藤信正が摂津高槻藩(大阪府高槻市)に移封になると長浜藩は廃藩、長浜城も廃城となり彦根藩(滋賀県彦根市:彦根城)領に組み込まれました。

しかし、長浜の地は北国街道の宿場町で、琵琶湖舟運の拠点でもあった為、引き続き商業都市として重要視されました。特に彦根藩は琵琶湖舟運の拠点である松原湊(彦根市)、米原湊(米原市)、長浜湊(長浜市)を領内三湊として重点的に整備庇護した事で大きく繁栄しています。又、江戸時代の徳川政権下、町民の中では密かに豊臣秀吉を神として信仰する家が多かったとされ現在の町づくりでも秀吉を主体としている事が目立ちます。現在でも古い町屋建築が軒を連ねる町並みが残され、豊臣家縁の神照寺(秀吉が再興)や八幡宮(秀吉寄進の庭園)、知善院(秀吉の木像が安置)、舎那院(秀吉が保護)、豊国神社(秀吉が祭神)、総持寺(秀吉が再興)などの神社仏閣も点在しています。

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