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【木之本宿】−木之本宿は北国街道(北陸道)の宿場町として発展した町です。町としての成立は早く、天武天皇4年(675)に木之本地蔵院(浄信寺)が創建され、信仰が広がると共に門前町が形成されていったと思われます。木之本地蔵院は弘仁3年(812)には空海、昌泰元年(898)には菅原道真、その他にも源義仲や足利義昭が訪れたと伝わる名刹で、室町時代には足利尊氏が庇護し、江戸時代初頭には豊臣秀頼が堂宇の再建をしています。寺宝も文化財指定されている仏像や仏画など数多く所有し往時は広く信仰され参拝者も多数訪れたようです。特に本尊(秘仏)である木造地蔵菩薩立像は鎌倉時代に製作されたもので、眼病平癒に御利益があるとして信仰の対象となり国指定重要文化財にも指定されています。
中世には入ると良馬の産地だった事から木之本宿で牛馬市が開かれるようになり、最盛期には数百頭の牛馬が集まり、それを求めて全国から多くの人が集まり、戦国時代には山内一豊の妻が自分の着物を売り払い夫の出世の為に名馬を買い求めたとの逸話が残されています。牛馬市は毎年2回行われ、木之本宿にある民家20余軒が宿所(馬宿)として利用され、その内の1軒、平四郎家が現在でも現存し往時の資料なども残されています。
江戸時代に入ると北国街道(北陸道)の宿場町として整備されると、木之本宿と中山道の関ヶ原宿を結ぶ北国脇往還の分岐点として重要視され宿場内には本陣(竹内五左衛門家、明治時代以降は薬局となり、日本薬剤師第一号の免状を所有、主屋の屋根には当時の薬の看板が吊り下げられています)、脇本陣(山路清平家、現在でも酒造業を営でいます)、問屋などが設置されました。北国街道(北陸道)と北国脇往還は北陸地方を領する諸藩の参勤交代の経路でもあり、その際には多くの家臣達も連れ立っていた事から木之本宿も大きく賑いました。現在も街道沿いには良好な町屋建築が軒を連ね伝統的な町並みを形成しています。
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