北国街道(滋賀県:近江路・北陸道)

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概要・歴史・観光・見所

【鳥居本宿】鳥居本宿滋賀県彦根市鳥居本町)は中山道(五街道)と朝鮮人街道(彦根道:織田信長が開削、八幡・安土・彦根などを経由して滋賀県野洲市行畑で中山道に再び合流、朝鮮通信使が利用)、北国街道(北陸道)が分岐する交通の要衝で、京都からの距離の関係で西国大名の多くが参勤交代の際に鳥居本宿を利用しています。鳥居本宿の名産「赤玉神教丸」は大変良く効く胃腸薬として知られ江戸時代中期に建てられた赤玉神教丸本舗(江戸時代末期の皇女和宮の降嫁や明治天皇の北国巡幸の際には小休所として利用されています)は彦根市指定文化財に指定されています。

【米原宿】米原宿(滋賀県米原市)は北国街道の宿場町である当時に琵琶湖舟運の拠点でもあり多くの物資の集積場となり、江戸時代初期の慶長16年(1611)には中山道の番場宿から脇道が整備され、米原宿を通して物資が行き交いました。軍事的な要所でもあり太尾山城は度々戦の舞台となり戦国時代には織田信長が近江信仰の拠点として重要視しています。宿場内には青岸寺(庭園は国指定名勝、近江湖北二十七名刹霊場27番札所、びわ湖百八霊場53番札所)や湯屋神社などの史跡があります。

【長浜宿】長浜宿(滋賀県長浜市)は天正元年(1573)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が長浜城を築城しその城下町として発展しました。江戸時代当初は長浜藩が立藩し、長浜城には藩庁、藩主居館が置かれ城下町も整備されましたが元和元年(1615)に藩主内藤家が摂津高槻藩に移封となった事で長浜藩は廃藩となり長浜城も廃城となります。その後は北国街道の宿場町、琵琶湖舟運の拠点として経済的に発展しました。現在でも街道沿いには多くの古民家が軒を連ね往時の雰囲気が残されています。

【木之本宿】木之本宿(滋賀県長浜市)は天武天皇4年(675)に創建された木之本地蔵院の門前町として発展した町です。周辺は馬の産地であった事から古くから馬市が行われ戦国時代には山内一豊が名馬を買い付けた事でも知られています。江戸時代に入ると北国街道が開削されると宿場町として整備され本陣(竹内家)や脇本陣(山路家)、問屋(藤田家)などが設けられました。現在でも木之本宿の街道沿いには多くの古民家が軒を連ね往時の雰囲気が残されています。

【柳瀬宿】−柳瀬宿(滋賀県長浜市余呉町)は古くから刀根村(敦賀市刀根)とを結ぶ倉坂峠道の分岐点がある交通の要衝で、土豪の柳ヶ瀬氏(椿井氏)が長く支配しました。江戸時代に入ると彦根藩に属し、北国街道が開削し柳瀬関所が設けられました。関守は柳ヶ瀬氏の後裔とされる柳瀬三太夫家が歴任し表門(長屋門)の遺構が残されています(柳瀬家は明治維新以降当地を離れ現在は鈴木家の門となっています)。

【椿坂宿】−椿坂宿(滋賀県長浜市余呉町)は椿坂峠を控えた小規模な宿場町でした。

【中河内宿】−中河内宿は天正6年(1578)、織田信長の家臣柴田勝家が信長の居城安土城(滋賀県近江八幡市安土町)と勝家の居城、北ノ庄城(福井県福井市)を結ぶ街道を開削した際に整備されました。北国街道の中でも難所とされる椿井峠(能美峠)や栃木峠が控え越前国(福井県)と近江国(滋賀県)の国境付近にあった為に重要視され「今庄朝立ち、木之本泊り、中河内で昼弁当」と謳われました。

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