彦根城(別名:金亀城)概要: 彦根城は慶長9年(1604)に井伊直継(直勝)が着工し彦根藩2代藩主直孝の代の元和8年(1622)に完成した平山城です。当時の彦根には佐和山城が中心的な城郭でしたが、関ヶ原の戦いで西軍の中心的な存在だった石田三成の居城で、山城で政務には向かなかった事などから彦根城の築城が計画されました。築城当初は大坂城に豊臣家が健在で、中山道と北国街道を押える為にも幕府から重要視され、築城に際しては天下普請とし7ヶ国(伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前)12大名が作事を担当、大坂の豊臣家や西国大名への戦略的拠点の1つとなりました。
又、豊臣家との関係が悪化する中、早期の完成が望まれ、天守閣は大津城の天守閣、太鼓門櫓は築城以前にあった観音寺の城門、天秤櫓は長浜城の大手門、西の丸三重櫓は小谷城(伝)の天守閣を移築し再利用しています。築城地である彦根山(標高136m)には金の亀に乗った観音像が安置されていた事から金亀山の別称があり、彦根城も「金亀城」とも呼ばれ、山頂付近の本丸を中心に西の丸、太鼓丸、鐘の丸を、麓には二の丸、三の丸を配し、琵琶湖の湖水を引き込んだ3重の堀がそれらを囲んだ連郭式平山城の名城とされました。
井伊直孝は慶長19年(1614)から慶長20年(1615)に行われた大坂の陣で大功を挙げた事で2代藩主の地位を確率し徳川秀忠、家光、家綱に渡って幕府の中枢で活躍した為、30万石(後35万石)に加増され譜代大名の中でも異例の出世を果たしました(石高35万石は譜代大名としては最高録)。廃藩置県後に一旦廃城となり多くの施設は破却されましたが、明治11年(1878)の明治天皇の北陸巡幸の際、彦根城の姿に感動した大隈重信が消失を惜しみ(米原福田寺住職の妻が尽力したとも)、その故を天皇に上奏し「取り壊し中止」の奏上を得てこれ以上の取り壊しが免れました。
昭和25年(1950)に琵琶湖と周辺が琵琶湖国定公園に指定されると、琵琶湖の名勝8箇所が選定され「月明 彦根の古城」・「涼風 雄松崎の白汀」・「新雪 賤ヶ岳の大観」・「煙雨 比叡の樹林」・「深緑 竹生島の沈影」・「夕陽 瀬田・石山の清流」・「暁霧 海津大崎の岩礁」・「春色 安土・八幡の水郷」が琵琶湖八景とされ彦根城も選定されました。
彦根城は国宝に指定されている天守閣をはじめ数多くの城郭建築が残り、佐和口多聞櫓、馬屋、天秤櫓、西の丸3重櫓及び続櫓が国指定重要文化財に指定され城内が昭和31年(1956)に「彦根城跡」として国指定特別史跡に指定され、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。又、彦根城周辺には藩主の下屋敷である楽々園や城郭庭園である玄宮園、直弼が青年期に過ごした「埋木舎」、武家屋敷の長屋門などが点在し日本の世界遺産暫定リストにも記載されています。
彦根城の文化財
・ 天守(附:櫓及び多聞櫓)-慶長11年-複合式望楼型3重3階地下1階−国宝
・ 天秤櫓-長浜城大手門-入母屋,本瓦葺,2重2階-国指定重要文化財
・ 太鼓門及び続櫓-観音寺山門-入母屋,本瓦葺-国指定重要文化財
・ 西の丸三重櫓及び続櫓-小谷城?-入母屋,本瓦葺,3重3階-国重文
・ 二の丸佐和口多聞櫓-明和8年-入母屋,本瓦葺-国指定重要文化財
・ 馬屋-明暦年間-木造平屋建,入母屋,こけら葺-国指定重要文化財
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