佐和山城(彦根市)概要: 佐和山城は鎌倉時代初期に佐々木時綱(近江源氏佐々木定綱6男)が佐和山に館を構えたのが始まりと伝えられています。その後、佐々木氏は六角氏と京極氏に別れ佐和山城がその領土の境界線に接していた為、両家による攻防戦が何度も繰り広げられました。六角氏の管理下となり家臣である小川氏などが城主として配されていましたが戦国時代になり浅井氏が台頭すると佐和山城が攻略され、城主には浅井家家臣磯野員昌が配されています。元亀年中(1570〜1572年)には織田信長が侵攻し城主磯野員昌との間で8ヶ月におよぶ攻防戦が繰り広げられ落城しています。
元亀2年(1571)には織田家家臣丹羽長秀が城主となり近江侵攻の戦略拠点として重要視され特に姉川の戦いや天正元年(1573)の小谷城の戦いなどで拠点として利用されています。天正10年(1582)に発生した本能寺の変の後は堀秀政、堀尾吉晴などが入り、天正18年(1590)には小田原の役で功のあった石田三成が城主となります。
三成は佐和山城を大改修し山頂付近の本丸を中心に二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などを配し麓には2重の堀が巡らした大規模近代山城を整備、本丸には5層の天守閣が建てられたとされます。城の威容は、「治部少に過ぎたものが二つある。 嶋左近に佐和山の城」と呼ばれる程で豊臣政権の要の1人だった三成の居城として相応しいものでした。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると城番だった石田正継(三成の父)が佐和山城に立て籠もり、東軍である徳川軍を迎え撃ちますが城内の2800人に比べ圧倒的な兵力差により落城し石田一族は自害し滅亡しました。その後、徳川四天王の一人である井伊直政が城主となりましたが、2年後に死去し、三成の怨霊が徘徊しているとの噂が広がった為、彦根城を築城し三成色を一掃し佐和山城も廃城となりました。
【 佐和山城大手門:概要 】-宗安寺(滋賀県彦根市本町)は元々、井伊家の本城だった高崎城(群馬県高崎市)の城下町に境内を構えていましたが、佐和山城に移封に伴い佐和山城下に遷り、さらに彦根城に遷ると現在地に移されています。表門は慶長8年(1603)に佐和山城の大手門を移築したものと伝えられ、形式は、切妻、本瓦葺き、一間一戸、木部朱塗り、薬医門、見た目から「赤門」の別称があります。
又、宗安寺本堂には、石田三成と関係が深かった瑞岳寺が所有していた三成の念持仏(千体仏)と地蔵菩薩像(石田地蔵尊)が保管されています。宗安寺の表門は佐和山城の数少ない遺構として貴重な事から昭和23年(2011)12月20日に彦根市景観重要建造物に選定されています。
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