【 北国街道 】−北国街道と北陸道の定義については諸説あるようですが、当サイトでは、北国街道を中山道追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町追分)から直江津湊(新潟県上越市直江津:厳密には直江津湊手前の分岐点)と中山道鳥居本宿(滋賀県彦根市鳥居本町)から今庄宿(福井県南条郡南越前町今庄)まで、一方、北陸道を直江津湊(厳密には直江津湊手前の分岐点)から今庄宿までとします。
【 木之本宿 】−木之本の地は天武天皇の時代(7世紀後半)に創建された、木之本地蔵院浄信寺の門前町として発展した町です。浄信寺は日本三大地蔵の一つに数えられるなど信仰を広げ弘法大師空海や菅原道真が参拝に訪れています。室町時代に入ると毎年2回牛馬市が開かれるようになり山内一豊の妻が夫の出世を願い名馬を買い求めたと伝えられています。江戸時代に入ると北国街道の宿場町である木之本宿として整備され、特に中山道の関ヶ原宿とを結ぶ北国脇往還の起点となった為、交通の要衝として重要視されました。
【 本陣 】−木之本宿の本陣は竹内五左衛門家が代々世襲し、現在は本陣薬局となっています。竹内家は織田信長の重臣柴田勝家の与力大名だった拝郷家嘉(通称:五左衛門)を祖とする旧大名家です。家嘉は猛将として知られ、織田軍の北陸侵攻に対抗を挙げ大聖寺城(石川県加賀市)8万石の城主となり名を馳せましたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで秀吉方の福島正則に討ち取られ没落しました(糟屋武則に討ち取れたとの説もあります)。その後、一族の一部が当地に移り住み寛永12年(1635)に木之本宿の本陣職を命じられ、さらに幕末からは薬問屋を営むようになりました。建築年は判りませんが、見るかに伝統的な町屋建築が残されています。
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