深坂道(米原宿)概要: 案内板によると「 永禄4年6月(1561)六角方の吉田安芸守が守備していた太尾山城を、浅井長政方の今井定清がこの深坂から攻め込んだが失敗に終わったとの記録があります。慶長16年(1611)北村源十郎が、中仙道番場宿と米原を結ぶ深坂道を開く、美濃や尾張から荷が、米原湊に集積され、丸子船で大津を経て京都へ人や物が運ばれるようになりました。 米原町教育委員会 」とあります。彦根藩は琵琶湖岸に開いた長浜湊、松原湊(彦根湊)、米原湊を彦根三湊として重要視し本来、鳥居本宿から分岐する北陸道を馬場宿から分岐させる事で最短距離で中山道と米原湊を結びました。この深坂道の開削により、当時10軒程度の民家しかなかった米原集落が天保14年(1843)の記録では家屋201軒、人口904人と発展しました。
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