御上神社(野洲市)概要: 御上神社の創建は平安時代に成立した「先代旧事本紀」によると孝霊天皇6年(紀元前285年)、三上山(標高:432m)の山頂に天之御影神が降臨した事から、孫神が三上山を御神体として祭ったのが始まりとされます。又、奈良時代に成立した「古事記」には「近つ淡海の御上祝がもちいつく天之御影神」との記述があり、近江国東部(琵琶湖東岸)を支配した安国造の一族と思われる御上祝が野洲郡に配され天之御影神を祀っていた事が窺えます。
ただし、三上山の山頂には巨石の盤座があり、近江富士と呼ばれる程に山姿が美しい事から古代から自然崇拝の対象として信仰されたものが朝廷の支配により具象化したとも考えられ、俵藤太(藤原秀郷)が三上山に巣食う大ムカデを退治したという伝説も残されています(ただし、俵藤太の大ムカデ退治伝説に似た伝説はその他の地方でも伝えられています)。養老2年(718)、勅命により藤原不比等が飛騨の匠を召還し現在地に社殿を造営、三上山の山頂の盤座を奥宮とし、当社を里宮としました。この故事に倣い、祭神が降臨した旧暦6月18日には神官と氏子達が朝早くから三上山山頂に登拝し、神迎えの神事(山上祭)が行われ、下山した後に当社で影向祭が行われます。
格式も高く日本三代実録によると貞観元年(859)に従五位上、貞観7年(865)に正四位下、貞観17年(865)に従三位に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には格式の高い名神大社として記載されました。古くから神仏習合し、宝亀年間(769〜780年)には三上の神が白猿の姿となって、「社の辺の堂」で修行中の大安寺(御上神社の別当寺院)の僧侶の前に現れ、罪を償う為に読経を依頼した事が弘仁年間(810〜824年)に成立した仏教説話集「日本霊異記」の中に記載されています。
朝廷や為政者、歴代領主などから崇敬庇護され天延2年(974)には円融天皇の祈願所となり建久元年(1190)には源頼朝、建武3年(1336)には足利尊氏、天正14年(1586)には豊臣秀吉が社領の寄進が行われ、嘉祥3年(1237)には六角泰綱が社頭を修理し、文安2年(1445)には当時の近江守護六角政頼が社殿の改修を行っています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され明治9年(1876)に郷社、大正2年(1913)に県社、大正13年(1914)に官幣中社に列しています。神仏霊場巡拝の道第144番(滋賀第12番)。祭神:天之御影神(天目一箇神) 。
現在の御上神社本殿は鎌倉時代に造営されたと推定される建物で、入母屋、檜皮葺、1間向拝付、桁行3間、梁間3間、鎌倉時代に建てられた神仏混合の神社本殿建築の遺構として大変貴重な存在で明治32年(1899)に国宝に指定されています。拝殿は鎌倉時代後期(1275〜1332年)に建てられたもので、入母屋、檜皮葺、平入、桁行3間、梁間3間、外壁は柱のみの吹き放し、垂れ壁は真壁造り白漆喰仕上げ、明治32年(1899)に国指定重要文化財に指定されています。楼門(神社山門)は康安5年(1365※康安は2年までしかない事から当時の年号は周知するのに時間差があったのかも?)に建てられたもので入母屋、檜皮葺、三間一戸、桁行3間(6.7m)、梁間2間(3.34m)、八脚楼門、明治32年(1899)に国指定重要文化財に指定されています。
御上神社の文化財
・ 本殿(附:厨子)−鎌倉時代−入母屋、檜皮葺、三間社−国宝
・ 拝殿−鎌倉時代−入母屋、檜皮葺、三間四方−国指定重要文化財
・ 楼門−康安5年−入母屋、檜皮葺、三間一戸−国指定重要文化財
・ 若宮神社−鎌倉時代−一間社流造、檜皮葺−国指定重要文化財
・ 木造狛犬(1対)−国指定重要文化財
・ 三上のずいき祭−重要無形民俗文化財
・ 三宮神社−室町時代−一間社流造、檜皮葺−滋賀県指定文化財
・ 絹本著色両界曼荼羅図−滋賀県指定文化財
・ 木造相撲人形(力士2体・行司1体) −滋賀県指定文化財
・ 御上神社文書(265点)−滋賀県指定文化財
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