兵主大社(野洲市)概要: 兵主大社は滋賀県野洲市五条に鎮座している神社です。兵主大社の創建は景行天皇58年(128)、稲背入彦命(景行天皇の皇子)が大和国穴師(現在の奈良県桜井市)に八千矛神の分霊を勧請されたのが始まりとされ、その後、近江国穴太(現在の大津市坂本穴太町元兵主)に遷座、さらに、欽明天皇の御代(531〜571)に現在地に遷座し、養老元年(717)に社殿が造営されました。格式が高く貞観4年(862)に正五位下、貞観16年(874)に從三位に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には名神大社として記載され、寛和元年(985)には花山天皇によりり「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っています。
社号の兵主は武家の頭領を暗示させることから特に武家為政者から崇敬庇護され、源頼朝は東国に流される際に当社に源氏再興の祈願を行い、見事念願成就し鎌倉に幕府を開くと神意に感謝し社殿の造営と社領3千余石を寄進しました。室町時代には初代将軍足利尊氏が社殿の造営と社領の寄進、途絶えていた例祭を再興したとされ、その後も為政者や大名などから多数の社宝が奉納され、「兵主十八郷」の総氏神として広く民衆からも信仰されました。
戦国時代に織田信長の兵火により社殿が焼失し衰微しましたが3代将軍徳川家光が復興し社領の寄進などが行われています。古くから神仏習合し「兵主大神宮」などと称し本地仏として不動明王が祀られ金勝寺や比叡山延暦寺、日吉大社と深い関係を保っていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は仏教色が一掃され社号を「兵主神社」に改称し大正4年(1915)に県社に列しています。
護摩堂は寛政6年(1794)に造営されたもので、宝形造、桁行2間、梁間2間、神仏習合時代は本地仏の不動明王が安置されていたそうで、現在も南北朝時代に彫刻された木造不動明王立像を所有し当時の名残が残されています。祭神:八千矛神。配祀:手名椎神、足名椎神。
現在の兵主大社楼門(神社山門)は天文19年(1550)に建立され明和3年(1766)に大改修されたもので、入母屋、桧皮葺、一間一戸(左右翼廊付き)、四脚楼門、外壁は朱塗り、室町時代末期に建てられた数少ない楼門建築の遺構として貴重なことから昭和41年(1966)に滋賀県指定有形文化財に指定されています。
兵主大社本殿は寛永20年(1643)に建てられたもので一間社切妻造、平入、桧皮葺、桁行3間、梁間3間3尺、正面1間向拝付、棟梁は吉地村の谷川孫左衛門、江戸時代初期に建てられた切妻造り神社本殿建築の遺構として貴重なことから棟札(2枚)、板札(2枚)、長押飾金具(4枚)、銅鏡(1面)、蛇腹板(23枚)と共に野洲市指定文化財に指定されています。
兵主大社庭園は鎌倉時代に国人領主だった播磨守資頼の邸宅庭園として作庭されたものと推定される地泉廻遊式庭園で(調査の結果平安時代末期の作庭と判明)、「名所的あるいは学術的価値の高い庭園」として昭和28年(1953)に国指定名勝に指定されています。青苔が素晴らしい事から「近江の苔寺」の別称があります。社宝も多く、白絹包腹巻(一具)が国指定重要文化財に指定されている他、革箙、錦包箙、梓弓、伏竹、黒漆弓、木造唐鞍神馬、木造神馬が国指定重要美術品に指定されています。
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