野洲市(歴史)概要: 野洲市の歴史は古く大岩山古墳群では古墳時代後期に築造された甲山古墳(円墳)や円山古墳(円墳)などが点在し、付近からは大量の銅鐸などが発掘されたことから古代近江国の中でも特別な存在だったと思われます。野洲市の象徴的存在である三上山は古くから信仰の山としても知られ麓には三上山に降臨した天御影命を祭神とする御上神社が鎮座し、藤原秀郷が大ムカデ退治した伝承が伝えられています。
その後も開発が続き旧中主町では五条、六条など当時の条里制の名残お思われる地名が点在しています。中世、佐々木六角氏の支配下に入ると家臣である永原氏(佐々木六角政頼の2男高賢の後裔とされる。)が配され永原城を中心に野洲郡の旗頭的存在となり、隣接する栗太郡、野洲郡、蒲生郡、甲賀郡まで勢力を広め佐々木六角氏家中の中でも有数の大名に成長しました。佐々木六角氏が織田信長に敗れると勢力も衰微し、豊臣政権下では豊臣秀次の与力大名とみなされ、秀次が謀反の疑いを掛けられ自害すると連座し改易となっています。
元禄11年(1698)、遠藤胤親が1万石で入封し三上藩を立藩、遠藤氏の前身は八幡城(岐阜県郡上市)の城主でしたが、当時の当主常久に嗣子が無かったために改易となり遠藤家は一時断絶しました。しかし、郡上藩祖である遠藤慶隆は関が原の戦いなどで功績があった為、一族である遠藤胤親が家名を継ぐことが許されました。5代藩主遠藤胤統は若年寄に抜擢され江戸城の改修工事などの功があり2千石が加増、さらに万延元年(1860)には城主格に昇格しています。幕末では遠藤胤城が徳川慶喜の奏者番を勤めるなど幕府側に組にしていた為、新政府からは敵視され領地没収の憂いにあっています(同年に罪が許されています)。
|