【 菩提者 】
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勝楽寺に墓碑がある佐々木道誉は京極家で生まれたものの、嘉元2年(1304)に本家筋の佐々木宗家を継ぎ、検非違使や鎌倉幕府執権北条家の御相供衆などの要職を歴任しました。しかし、元弘3年(1333)には一転して倒幕運動に参画し蓮華寺で北条仲時を自刃に追い込み、光厳天皇と花園上皇を捕縛し三種の神器を取り上げています。南北朝時代は足利尊氏に早い段階から与した事で信任を得て若狭国(福井県)・近江国(滋賀県)・出雲国(島根県)・上総国(千葉県)・飛騨国(岐阜県)・摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の守護職を歴任しましたが、白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちした事で一時上総に配流されています。その後、室町幕府に戻ると引付頭人や評定衆、政所執事などの要職に就く一方で、北朝方の有力武将として各地で行われた南朝との合戦にも従軍しています。その後も室町幕府の中心的な存在となり特に足利尊氏が死去し、足利義詮が2代目に就任すると、義詮の年齢的な事もあり佐々木道誉が後に管領と呼ばれる執事として幕政の実権を握りました。しかし、執事職を巡る権力争いが発生し斯波高経などと対立が激化しています。文中2年/応安6年(1373)に死去。享年78歳。居城だった勝楽寺城の麓に境内を構える勝楽寺の境内には佐々木道誉の墓碑(戒名:勝楽寺殿徳翁導誉)が建立されています。
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