【 菩提者 】
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縁心寺に墓碑がある戸田一西は戸田宗家の一族とされる多米戸田氏光の長男とされる人物です(養子説有)。当初は三河国渥美郡多米地域を本領とする独立した豪族でしたが、永禄8年(1565)に、今川家から独立を図った徳川家康が今川方の吉田城(愛知県豊橋市今橋町)を攻めた頃に家臣になったと見られます。その後は主要な合戦に従軍し、特に天正18年(1590)小田原合戦の際には小田原城の有力な支城である山中城(静岡県三島市山中新田)の攻略に大きな功績がありました。慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは、中山道を進軍する徳川秀忠の軍に従軍し、第二次上田合戦を回避するように上申したものの受け入れられなかったとされます。結果的に上田城(長野県上田市)を攻めあぐねた秀忠は関ヶ原の本戦に遅参したものの、戸田一西が回避の上申した事が徳川家康に伝わると称賛されました。慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いで大破した大津城を廃城とし膳所城を新たに築城した際には一西も普請に携わり、竣工後は周辺3万石が安堵され膳所藩を立藩、初代藩主に就任しています。慶長9年(1604)に落馬によりし死去、菩提は後に縁心寺となる円通寺の境内に葬られ墓碑が建立されました(縁心寺は後に膳所藩の藩主となった本多家の菩提寺で境内には本多家の墓碑が建立されています)。
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