【 菩提者 】
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円光寺を菩提寺とする分部家は鎌倉幕府の有力御家人だった工藤祐経を祖とする後裔の一族とされ、伊勢国安濃郡分部村を本拠としていました。戦国時代に当時の当主分部光高に嫡男が生まれなかった為、一族の細野藤光の次男分部光嘉を養子として迎えました。織田信長が伊勢国に侵攻すると逸早く織田家に内応し主家である長野氏を離れ信長の弟である織田信包を主家として迎えています。織田信包は天正18年(1590)の小田原合戦の不手際により文禄3年(1594)に改易となった為、光嘉は豊臣家の直参の家臣に転じ伊勢上野城1万石を安堵されています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、東軍方の安濃津城に籠城するものの西軍の大軍に攻め立てられ開城、光嘉は専修寺に軟禁されました。戦後、徳川家康から評価を受け2万石に加増されたものの慶長6年(1601)に安濃津城で受けた傷が原因となり死去、光嘉の嫡男である光勝が早世していた為、一族である長野氏から外孫でもある分部光信を養子として迎え分部家の家督を継がせています。光信は幕府普請の各地の城郭築城に尽力し大坂の陣でも功を挙げた事から元和5年(1619)に大溝藩(滋賀県高島市)に移封となり、以後、分部家が藩主を歴任し明治維新を迎えています。分部家の菩提寺である円光寺は伊勢国に創建された古刹ですが、大溝藩移封に伴い当地でも創建され、境内には分部家の歴代墓碑が建立されています。
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