【 菩提者 】
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木曽義仲は久寿元年(1154)、源義賢(源為義の次男、源義朝の異母弟、河内源氏)の次男として生まれ、源頼朝や義経、範頼とは従兄弟の関係にあたります。久寿2年(1155)、大蔵合戦で義賢は討死、当時2歳だった駒王丸(後の木曽義仲)は畠山重能、斎藤実盛等の協力もあり木曽に落ち延び中原兼遠に庇護され幼少期を過しました。治承4年(1180)、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が「以仁王の令旨(平氏追討令)」を全国の武士達に発布し、義仲もこれに呼応し平家打倒の為挙兵しました。当初は北信越地方から上野国まで進軍し一応の結果を残し、治承5年(1181)から本格的な平家打倒の為の行動を開始しています。義仲は小県郡の白鳥河原(長野県東御市海野宿)に陣を張ると、周辺の豪族達も呼応し約3千騎が河原に集結し、横田河原の戦いでは信濃源氏の追討を命じられた城助職を破り北陸道を進み北陸地方へと進みました。寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる平家10万の兵を敗走させ、続く篠原の戦いでも勝利すると平家軍は事実上崩壊し四散しました。この戦いの勝利により多くの武士団が義仲軍に加わり、同年に内に京都入りを果しています。義仲は勲功第二、伊予守に任ぜられますが、皇位継承に口を出した事で朝廷から疎まれるようになり、さらに飢饉の折、多数の兵を長く京都に滞在させた事で治安が悪化し、義仲の評価も急激に下がりだしました。義仲はこのような状況を打開する為に西国にいる平家の追討を理由に京都を離れますが、その隙に源頼朝が源範頼、義経に命じて上洛させ東海・東山両道諸国の支配権を得ると共に義仲追討を決意します。義仲も京都に引き返し軍を立て直しますが、元々混成部隊で食糧不足や、協力者であった源行家との意見の違いなどから士気が上がらず、さらに朝廷側も頼朝軍に加担した為、完全に不利な状況となりました。当初は法住寺合戦を制して京都を掌握しましたが寿永3年(1184)、頼朝軍が近江に到着すると宇治川の戦いや瀬田の戦いで大敗を喫し、粟津の戦いで討死したと伝えられています。享年31歳。
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