【 菩提者 】
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西教寺に供養塔がある明智光秀の生年月日は不詳で(享禄元年:1528年説が有力)、美濃源氏土岐氏支流である明智氏から出たとされます。土岐氏が没落した後は斎藤道三や朝倉義景に仕え、その後に足利義昭と織田信長の両方同時に仕える両属となっています。信長の下で主要な合戦に従軍し功を挙げた事で異例な出世を遂げ、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちでも主要な役割を担い、近江国滋賀郡(志賀郡)5万石が与えられました。この際、築いたのが居城である坂本城で、城下近くにあった西教寺を篤く帰依し討ち死にした家臣の供養の為に供養米を寄進しています。その後も光秀は坂本城を拠点として、丹波国、丹後国を平定し約240万石、織田軍ナンバー2の地位を確立し、天正10年(1582)には中国地方に出兵時に本能寺で宿泊した織田信長を急襲し自害に追い込み一時天下を掌握しました。しかし、羽柴秀吉の中国大返しにより光秀が体制を整える前に天王山となる山崎の戦いに及び奮戦むなしく敗北、居城である坂本城に帰還する途中に土民に襲撃された事で深手を負い自害しています。又、残された明智一族は坂本城で籠城に及ぶも落城し、討死や自刃した者は西教寺に埋葬され供養されたそうです。
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