興聖寺(朽木家:菩提寺)

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興聖寺(朽木家:菩提寺)
【 菩提者 】 興聖寺を菩提寺とする朽木家は鎌倉幕府の有力御家人だった佐々木信綱の子供である高島高信の次男頼綱の3男義綱が近江国朽木庄(現在の滋賀県高島市)に配され、地名に因み「朽木」姓を名乗ったのが始まりとされます。朽木家は高島七頭の一翼を担う一方で幕府の御家人でもありましたが、鎌倉幕府が倒れ南北朝時代に入ると一族(高島七頭)の中で逸早く北朝方の足利尊氏に属し各地で転戦しました。この功により高島七頭の中で朽木家が室町将軍足利家と近い存在となり信任も厚かったとされます。戦国時代に入り足利家が衰退すると、同じく佐々木信綱の後裔の一族である六角氏に従うになりますが、朽木稙綱は足利義晴の申次衆・内談衆に就任するなど足利家の側近として頼られる存在でもありました。さらに足利義藤(義輝)が13代将軍に就任すると御供衆となり天文20年(1551)には京都を追われた義藤を朽木谷に迎え入れ、同様に天文22年(1553)から永禄元年(1558)の5年間も朽木谷での生活を余儀なくされています。織田信長の台頭により織田家に属するようになり、特に元亀元年(1570)の朝倉攻めの際には浅井氏の裏切りにより織田軍が大敗北し、金ヶ崎から京都に逃れる際には朽木家が協力しています。天正10年(1582)の本能寺の変以降は豊臣秀吉に属し、天正18年(1590)の小田原合戦の功により1万石の諸侯に列しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に属するものの、東軍にも内通していた事で本領が安堵され本流は交代寄合の旗本として明治維新を迎えています。

【 寺  号 】 興聖寺(
【 所在地 】 滋賀県高島市朽木岩瀬
【 創建年 】 嘉禎3年(1237)〜寛元元年(1243)
【 開  山 】 道元
【 開  基 】 佐々木信綱
【 山  号 】 高巌山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦如来
【 備  考 】 朽木氏歴代の墓
滋賀県大名菩提寺
浅井家:墓碑分部家:墓碑大信寺永源寺円光寺縁心寺義仲寺近江孤篷庵興聖寺木村重成:首塚
森可成:墓碑園城寺西教寺佐々木道誉:墓碑清凉寺宗安寺聖衆来迎寺勝楽寺徳勝寺長松院
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