【 菩提者 】
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長松院の境内で荼毘に付された井伊直政は、井伊家の当主だった井伊直親の嫡男として生まれました。しかし、直政が2歳の時に直親が今川氏真に誅殺された為、家督は先々代の当主井伊直盛の娘(男性説有)である井伊直虎(次郎法師)が継ぎ、元服するまで政務を司りました。当時の井伊家は豪族として独立していたものの、事実上今川家に従属する立場で、度重なる家臣の反乱などで衰微していた為、状況を打開する為に徳川家に転じました。当主の徳川家康も、今川家から独立したばかりで不安定な領土経営を強いられていた為、井伊家を取り込み厚遇する事で周辺の豪族に対して親徳川を促す格好な例となりました。直政もその期待に応え主要な合戦に従軍し大功を挙げた為、家臣の中でも異例な出世を遂げ徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられました。天正18年(1590)の小田原合戦やその後に発生した九戸政実の乱でも主要な働きをし、徳川家康が関東移封になると徳川家臣団の中では最高の箕輪城(群馬県高崎市)12万石が与えられました(後に高崎城を築城)。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍の軍監として中心的な役割を担い、戦後処理や幕府の基礎固めにも尽力、この大功により、西軍の事実上の中心を成した石田三成の居城である佐和山城18万石を与えられましたが、関ヶ原の戦いで負ったとされる大怪我が遠因となり慶長7年(1602)に死去しました。遺骸は遺言により、現在の長松院の境内で荼毘に付され、跡を継いだ長男の井伊直勝(直継)が貴山永胤大和尚を招いて祥壽院を創建、院号は直政の戒名「祥壽院殿清涼泰安大居士」に因むものとされます(その後、「長松院」に改めています)。
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