五個荘金堂町・歴史・観光・見所

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概要・歴史・観光・見所
五個荘金堂町(歴史)概要: 五個荘金堂町は古代条里制が見られるなど古くから開けていた地域で、推古天皇29年(621)には聖徳太子が小野妹子に命じて金堂寺を開いたとされ地名の由来になっています。中世に入り金堂寺の鎮守社である大城神社の境内が観音寺城の鬼門に位置していたことから城の守護神として歴代城主から崇敬庇護されましたが、度重なる観音寺城の攻防戦の兵火により度々五個荘一帯が戦場となり大きな被害を出しています。江戸時代に入ると天領となり、寛文元年(1662)から館林藩(群馬県館林市)領、天和3年(1683)に天領、貞享2年(1685)以降は郡山藩(奈良県大和郡山市)領になりました。

元禄6年(1693)に郡山藩は五個荘金堂に陣屋を設け条里制を利用した町割りを計画し、現在見られる町並みの基礎を築きました。陣屋は現在の旧外村繁邸(外村繁文学館)付近に設けられ、長屋門と堀に囲まれた内部には役所、役宅、土蔵、稲荷社、牢屋などの施設があり代官1名、手代2名、書役1〜2名が常駐していました。町は陣屋を取り囲むように弘誓寺、勝徳寺、安福寺が配され小さいながらも小城下町が形成されていきました。

当初は農家主体の町でしたが江戸時代後期になると、所謂近江商人が発生し、呉服や絹織物を手懸け関東にまで進出する豪商も現れ五個荘商人とまで呼ばれるようになりました。昭和3年に編纂された「神崎郡志稿」では大正13年に五個荘金堂町には外村興左衛門・外村宇兵衛・外村市郎兵衛・塚本喜左衛門・中江勝次郎など19名の商家が存在したとされます。五個荘金堂町は一般的な町屋形式ではなく宅邸形式の豪商建築が建ち並ぶ町並みで、現在でも白壁や船板塀、蔵屋敷などが残り当時の名残が随所に見られます。五個荘金堂町は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(日本遺産)
・ 現地案内板(近江商人発祥の地 てんびんの里 白壁と蔵屋敷マップ)
・ 現地案内板-東近江市教育委員会
【 周辺地図 】
滋賀県東近江市五個荘金堂町

五個荘金堂町:町並み・写真

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五個荘金堂町・歴史・神社・寺院・城郭・古民家

大城神社
大城神社
大城神社
弘誓寺
弘誓寺
弘誓寺
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金堂馬場の五輪塔
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