甲良町(歴史)概要: 甲良町は甲良親王が開いた地域とされ、地名もこれに因んでいると云われています。中世は近江源氏佐々木道誉が勝楽寺城を本拠としました。道誉は鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で、鎌倉時代は幕府執権の北条高時に御相供衆として仕え、倒幕の際は足利尊氏に与し大功を挙げています。南北朝時代も尊氏の有力家臣として重きを成し、室町幕府成立にも大きく貢献し最盛期には若狭国・近江国・出雲国・上総国・飛騨国・摂津国の守護職を担い大きな影響力を持ちました。又、文化的も連歌、立花、茶道、香道、笛、、近江猿楽など興隆に尽力し婆沙羅大名としても名を馳せました。
その後、佐々木氏の後裔である京極氏が治め、京極氏が衰退すると浅井氏の所領となり、織田信長の近江侵攻により織田領になっています。又、出雲の大名で中国地方を席巻した尼子氏は、京極氏が出雲国の守護職を担った際、その一族が土着して尼子氏を興しています。戦国大名の藤堂高虎は近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町在士)出身で、当初は浅井家に仕えていましたが、天正元年(1573)に浅井家が織田信長により滅ぼされると転々とし、その後豊臣家(羽柴家)に仕え、大名家にまで出世しています。
関ヶ原の戦いでは大恩があった豊臣家を裏切り東軍に与し今治藩(愛媛県今治市)20万石が与えられています。特に御殿や城郭の作事を得意とし亀山城や、江戸城、日光東照宮の普請奉行を歴任し最終的には津藩(三重県津市)32万石まで加増されています。甲良町は江戸時代に入ると彦根藩に属し、甲良町出身の甲良豊後守宗廣は日光東照宮(栃木県日光市)を造営するなど甲良大工の祖となっています。
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