竜王町(歴史)概要: 竜王町は比較的早く開けた地域で5世紀の中頃に築造された雨宮古墳(帆立貝形古墳:全長85m、前方部長さ22m幅35m高さ1.9m・後円部直径67m高さ9m)は滋賀県内では3番目の規模を誇り当時から有力豪族が支配していたと思われます。同時期には朝鮮半島から多くの技術者が竜王町にも土着し、祖神である天日槍尊(新羅国の王子)の分霊を勧請して鏡神社を創建、天日槍尊が神鏡を埋めた山は「鏡山」として古今和歌集など多くの書物に記されています。
渡来人達が教えたと思われる陶器の製法は当時の竜王町の主要産業だったとされ鏡山周辺からは数多くの窯跡が発見され「日本書紀」の中でも「近江国の鏡村の谷の陶人」と記されています。京都と関東、東北地方を結ぶ東山道が整備され鏡の宿が設けられると、京都を早朝に発つ旅人が最初に泊まる駅として繁栄し源義経や源頼朝、足利尊氏などが利用しています。中世は近江守護職佐々木氏が支配し、竜王町の一部は佐々木氏の一族とされる鏡氏が旗頭として支配しますが、佐々木氏の後裔である六角氏が織田信長によって滅ぼされると衰退しています。
江戸時代に入り中山道が整備されると鏡宿は正式な宿場町に認定されなかった為、当時の賑わいは無くなりましたが、守山宿と武佐宿の間の宿として本陣(林惣右衛門則之家)と脇本陣(白井弥惣兵衛家)が設置され参勤交代の大名や皇族などが休息に利用しています。特に紀州徳川家の定宿で、皇女和宮も休息で利用するなど事実上宿場町の機能を有し、度々隣接する宿場町から苦情の訴えがあったそうです。
|