大通寺(長浜市)概要: 無礙智山大通寺は滋賀県長浜市元浜町に境内を構えている浄土真宗大谷派の寺院です。大通寺の創建は天正年間(1573〜1592年)、羽柴秀吉が長浜城を築く際、城内に寄合道場を開いたのが始まりとされ、当地域での浄土宗布教の中心的な役割を持った事から「総会所」と呼ばれていたと伝えられています。慶長7年(1602)に教如(本願寺第12世)が改めて開創し山号寺号を「無礙智山大通寺」とし、別称で「長浜御堂」と呼ばれました。慶長11年(1606)に内藤信成が長浜藩に入封した際、改めて長浜城の拡張や城下町が整備された事に伴い境内が遷され、さらに元和元年(1615)に長浜藩が廃藩になると長浜城も廃城となった為、城下町から大通寺の門前町になるべく現在地に遷り長浜城の遺構の一部も移築されました。
一方、当地域は彦根藩領に組み込まれた事で、彦根藩の藩主井伊家から庇護を受けるようになり、特に寛永16年(1639)、霊瑞院宣澄(東本願寺第13代法主である宣如上人の3男)が大通寺に入寺するとその関係が顕著となり三代将軍徳川家光の乳母である春日局を通じ、慶安2年(1649)には当時の藩主井伊直孝から周辺の土地を与えられ境内を拡張しています。さらに承応元年(1652)には伏見城(京都府京都市伏見区桃山町大蔵 ※豊臣政権末期の政治の中心だった城)の遺構の一部が大通寺に移築され次第に寺観が整えられていきました。
又、霊瑞院宣澄以降、大通寺の住職は東本願寺住職の連枝(兄弟など)が勤めるのが常となり浄土真宗大谷派の別院として地位を確立しています。井伊家とは度々血縁関係が結ばれ江戸時代中期の住職である横超院に嫁いだ数姫(彦根藩8代藩主井伊直惟の息女)は宝暦10年(1760)、祖師聖人500年忌の際に広間の玄関を寄進しています。
現在の大通寺本堂(木造平屋建て、入母屋、本瓦葺、桁行5間、桁行5間)と広間(木造平屋建て、寄棟、本瓦葺、桁行5間、背面8間、梁間左面8間、右側面6間、玄関附き)は伏見城の遺構と云われる建物で徳川家康が教如に贈ったものを移築した貴重なものとして大正4年(1915)に国指定重要文化財に指定されています。
台所門は天正16年(1588)頃に建てられた長浜城の追手門を移築したものと伝えられるもので、切妻、本瓦葺き、三間一戸、薬医門、附:獅子口瓦2個、数少ない長浜城の遺構として貴重な事から昭和41年(1966)に長浜市指定文化財に指定されています。
大通寺山門は天保12年(1841)に建てられたもので、三間三戸、桁行3間、張間2間、入母屋、本瓦葺、2重楼門、附:山廊(2棟)、江戸時代後期の大型楼門建築の遺構として貴重な事から昭和63年(1988)に長浜市指定文化財に指定されています。寺宝も多く数多くの文化財を所有し含山軒庭園(鑑賞式枯山水)と蘭亭庭園(鑑賞式池泉庭園)が国指定名勝に指定されています。通称:長浜御坊。山号:無礙智山。宗派:浄土真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。
大通寺の文化財
・ 本堂−桃山時代−国指定重要文化財
・ 広間(附玄関・棟札)−江戸時代−国指定重要文化財
・ 含山軒及び蘭亭(客殿)−江戸時代−国指定重要文化財
・ 台所門−桃山時代−長浜市指定文化財
・ 山門−天保12年−長浜市指定文化財
・ 庫裏−天和2年−長浜市指定文化財
・ 鐘楼−延宝3年−長浜市指定文化財
・ 太鼓楼−19世紀前期−長浜市指定文化財
・ 渡廊−18世紀後期−長浜市指定文化財
・ 新御座−大正元年−長浜市指定文化財
・ 宝蔵−明和2年−長浜市指定文化財
・ 含山軒庭園−江戸時代−国指定名勝
・ 蘭亭庭園−江戸時代−国指定名勝
・ 学問所庭園−江戸時代−長浜市指定名勝
・ 梵鐘−貞治2年−滋賀県指定文化財
・ 金地墨画梅の図襖(12面)−江戸時代−長浜市指定文化財
・ 紙本墨画花鳥及び山水図貼付六曲屏風−長浜市指定文化財
薬医門を簡単に説明した動画
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